学而篇第一-2.その人と為りや…

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現代語訳と原文・読み下し

弟子でし有若ユウジャク先生が言いました。「理想的な子、理想的な年下、そんな性格の者が、目上に逆らうなんて、めったにないに決まっている。目上に逆らいたがらない人が、騒ぎを起こすなんて、今まであったためしがないよ。君子たる者、まず自分の基礎を確立しようとするとするものだ。善悪のけじめが付いて、やっとどう行動すればいいかが分かる。となると、親孝行年上孝行が、きっと仁の基礎なんだろうよ。」


有子曰。其爲人也孝弟、而好犯上者鮮矣。不好犯上、而好作亂者、未之有也。君子務本。本立而道生。孝弟也者、其爲仁之本與。
有子ユウシいわく、の人とうやまひなつきなりて、しかかみを犯すを好む者はすくなかなりなん。上を犯すを好まりて、而もみだれすを好む者は、いまこれ有らざる也。君子はもとつとむ。本立ちて道生まる。孝弟なるジンもと

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語釈

「老」+「子」。子供が年長者を上に見ているさま。年長者から見て望ましい子供のありさまを言う。

白川説では、もとは薪のように、革ひもでものを束ねたさまで、順序よく束ねる事から「順序」→「おとうと」。藤堂説では、登山道の目印のような、垂れ下がった紐+棒くい。低い位置を示し、ここから「おとうと」の意味が派生した。その後「孝」と同様、年長者から見て望ましい年下のありさまを言う。

白川説では、「犬」+「人の伏せた形」とし、タブーを破る獣姦を意味する。藤堂説では、「犬」+「枠」で、犬が囲われた枠を飛び出すさま。いずれも決まりを破る事は同じ。

「魚」+「羊」。生魚と生肉が原義。白川説では、セン(魚の生臭さ)・セン(肉の生臭さ)の省略形で、新鮮な肉や魚は生臭いことから、また藤堂説では切りたての肉や魚である事から、「新鮮」→「鮮やか」を意味するようになった。またセンセンと同音であることから、「少ない」の意味が派生した。

矣(イ)

白川説では、矢で=農具のスキをお祓いすること。藤堂説では、人が振り返っている姿。通常は置き字として読まない事が多いが、いずれも断定決意の意味を持つ。

亂(乱)

白川説では、「舌」(糸かせでまとめられた糸)の乱れを「乙」(竹べら)で収める事。藤堂説もほぼ同じで、「舌」(糸のもつれを引っ張る手)+「乙」(おさえる)。ここから、「乱れる」「収める」と、反対の意味を持つようになった。ただし白川説では、両者は並列に生まれたとし、藤堂説では「おさめる」を転用に過ぎないとする。

白川説・藤堂説ともに「太くなった木の根もと」。

解説

仁とは何か

「仁」というのは、論語を貫く一大テーマです。

これがわかれば論語が分かると言ってもいいくらいです。でもその内容は簡単です。打算のない愛情です。互いに仁で接すれば、世の人間関係はまろやかになるでしょう。しかし孔子にとっての仁は単なる道徳ではなく、天下国家を経営する根本でした。

なぜなら当時は、分裂・戦乱の時代だったからです。孔子にとっての天下は、つまるところ人の集まりに他ならず、個別の人間関係がまろやかであれば、その集まりである天下は治まるはず、と考えました。従って打算の無い愛情が、政治技術の根本たり得たのです。

こんにちから見れば雲を掴むような話で、現実的ではありません。現実的でない事を、当の孔子自身が、あろうことか弟子から指摘される始末でした。しかし政治とはどうあるべきか、どう理想を実現すべきか、それを中国史上初めて説いたのが、孔子であった事も事実です。

一方で孔子の下で学んだ弟子の多くは、地位や身分のない者がほとんどです。勉強によって出世しようというのが、彼らの大きな動機でした。従って仁そのものを理解し実践するより、諸侯の喜び就職に役立つ、儀式の方法や祈祷の技術、文書の書き方を学びたがりました。

こうした師弟間のすれ違いは、論語を読むに当たって記憶しておいていいでしょう。

孔子塾生の平均像

有若もまた、そうしたごく普通の弟子に過ぎなかったのです。とにかく目上に従えとしか言わない今回の一節を聞いて、まろやかどころか、弟弟子がうんざりしているのが目に見えるからです。だからといって、有若が取り立てて出来が悪かったとは言えません。
学而第一-2_1_027

それどころか有若には、顔が孔子に似ていたという特徴がありました。それゆえ孔子没後、一部の兄弟子たちは後継者に、彼を選ぼうとしました。それを聞いた孔子晩年の直弟子、曾参ソウシンは、この選択に異を唱え、有若は皆が認める後継者にはなれませんでした。

その理由と思われる記録があります。有若は「」=先生とのちに呼ばれたわりには、孔子没後、弟弟子の質問にうまく答えられませんでした。ただし就職はうまくいき、地元魯国の儀式顧問になっています。いわば、多くの弟子たちにとって理想の出世コースでした。

有若が先生呼ばわりされ、論語の二番目という大舞台に言葉が記されたのも、孔子没後の風景を想像させます。論語は孔子の没後、メモを集める形で少しずつ編纂されましたが、それに従事する弟子たちにとって、有若が弟子の理想像であれば、仁の理解は二の次だったのです。

孔子塾といえども人間集団とは、どうやらそうしたものなのでしょう。

付記

伝統的解釈

有先生がいわれた。家庭において、親には孝行であり、兄には従順であるような人物が、世間に出て長上に対して不遜であったためしはめったにない。長上に対して不遜でない人が、好んで社会国家の秩序をみだし、乱をおこしたというためしは絶対にないことである。古来、君子は何ごとにも根本を大切にし、まずそこに全精力を傾倒して来たものだが、それは、根本さえ把握すると、道はおのずからにしてひらけて行くものだからである。君子が到達した仁という至上の徳も、おそらく孝弟というような家庭道徳の忠実な実践にその根本があったのではあるまいか。

以下、訳者のメモです。
『孟子』滕文公上
昔者孔子沒,三年之外,門人治任將歸,入揖於子貢,相向而哭,皆失聲,然後歸。子貢反,築室於場,獨居三年,然後歸。他日,子夏、子張、子游以有若似聖人,欲以所事孔子事之,彊曾子。曾子曰「不可。江漢以濯之,秋陽以暴之,皜皜乎不可尚已。」
『史記』仲尼弟子列傳
子貢好廢舉,與時轉貨貲。喜揚人之美,不能匿人之過。常相魯衛,家累千金,卒終于齊。

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