学而篇第一-10.夫子の是の邦に…

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現代語訳と原文・読み下し

禽先生が、兄弟子の貢先生に尋ねました。「〔どうもみっともなく思います。〕孔子先生が諸国を旅すると、必ず現地の政治に関わっています。自分からお求めだったのでしょうか、それとも自然にそうなったのでしょうか。」
貢先生が答えた。「〔孔子先生を疑うな。〕先生は穏やかで、善良で、へりくだっていて、つつましくて、控えめだった。だから政治に関わるにふさわしいんだ。ご自分でお望みでも、世の権力亡者が官職を欲しがったのとは、こんなに違ったんだぞ。」


子禽問於子貢曰。夫子至於是邦也。必聞其政。求之與。抑與之與。子貢曰。夫子温良恭儉譲以得之。夫子之求之也、其諸異乎人之求之與。

子禽シキン子貢シコウに問ふていわく。夫子フウシくに至るや、必ずまつりごとを聞く。これを求めたるそもそも之にあづか。子貢曰く、夫子はおとなしよしうやうやしつつましへり、以て之を得たり。夫子の之を求むる、其れもろもろ人の之を求むるより異ならん與。

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語釈

與(与)

「与」は「牙」で、特に白川説では象牙だという。それを四本の手で捧げ持つ姿で、共同で運ぶ事を言う。このため「~と」の意味がある。藤堂説もほぼ同じで、「力を合わせる」ことから「与える」の意味が派生したという。

「言」+「者」で、白川説では「者」を村落の周囲に埋めたのろい札とし、「それがもろもろの呪いに及ぶので諸というのであろう」と言う。藤堂説では「者」は「薪を詰め込んだコンロ」で、一カ所に多くのものが集まっているさまを言い、指示代名詞に転化されたのは当て字とする。

邦・國(国)

「邦」は天子=中華世界全体の君主と、諸侯=各国の殿様が、盛り土の上で領有を神々に宣言すること。必ずしも中国全土を意味しない。「國」は或=かざりのついた矛と、四角い囲いの組み合わせで、武力で守る領域を言う。

解説

今回、伝統的解釈に異議はありません。

孔子も弟子に疑われた

学而第一-10_1_020
ます本章を、孔子放浪中のやりとりとして考えてみます。

「夫子の是れ邦に至るや」とは、当時分裂していた中国の諸国を、国から国へと放浪する孔子が、「とある諸侯国に入ると」の意味です。日本の戦国時代と同じく当時の中国は、形式上の主権者たる周王が居ましたが、諸侯=殿様が各地で割拠し、互いに攻め合っていました。

孔子は故国魯での政争に敗れ、理想的政治の実現をめざして弟子と共に放浪したのです。従って自分から政治への関与を望んだのは間違いないのです。しかし子貢はその願望を、弟弟子の子禽にあからさまには言いませんでした。おそらく子禽には孔子に疑念があったのでしょう。

孔子は名声こそ高かったものの、出身身分が低く放浪中とあっては、諸侯にあまり歓迎されませんでした。加えてその主張が当時の権力を脅かすものであったことから、けんもほろろに追い出されたことさえあります。それでも仕官を求める姿を、子禽はいぶかったのでした。

そこで子貢は、師を疑うな、他の権力亡者とは違うのだと諭したのです。温・良・恭・倹・譲でない人ほど政治に関わりたがるのは、古今東西変わらない事実で、権力亡者はみっともないと、子貢も思っていたからでしょう。そして何より子貢が、一行の指導者であったからです。

もともと財産家の出身だった子貢は、おそらくその財力で放浪の旅を支えたと思われます。また弁舌も巧みだったので、交渉により一行の危機を救ってもいます。時に死の危険が何度か襲った旅路を疑う弟子が出るのももっともでしたが、子貢はそれを止めたわけです。

孔子を疑った子禽

次に孔子一門が故国の魯に落ち着いてからのこと、と考えてみます。論語子張篇25に、子禽が子貢に対して「貢先生は仲尼(=孔子のあざな。孔さん)にへりくだっていますね? 仲尼がどうして先生より賢いと言えるのでしょう?」と半ば孔子を呼び捨てにしています。

子禽は季氏篇13でも孔子を見くびっています。孔子の子・伯魚(=孔鯉)に「あなたは何か特別の教えを受けていますか?」「特には。しかし(と二つ語って分かれる)。」その後で子禽「しめしめ、一石三鳥だ。教えが二つ、そして君子は子を遠ざけることを知ったぞ。」

伯魚が父の旅に同行した記録はありませんから、子禽もそうだった可能性があります。するとおそらくは孔子没後の魯国で子貢と語ったとき、つい孔子への批判が飛び出したのでしょう。子禽、本名は陳亢、孔子より40歳年少と伝わるこのような弟子も、一門にはいたわけです。

孔子放浪の旅はつらいものでしたが、旅先で仕官できた弟子もいます。ならば子禽もついていく動機がありますが、彼自身の発言を考えると魯に残っていた、そして本章は旅が終わってあとの話と解した方がよさそうです。そんな子禽を、子貢はその都度たしなめたのでした。

子貢という弟子

子貢、本名はタン木賜ボクシ、『史記』によれば孔子より31歳年少。子貢=貢先生、と記されているのは、孔子自身が高く評価しており、能力は他派閥も認めざるを得なかったからでしょう。また困窮している弟子仲間には、援助の手をさしのべたと思われる記録もあります。

孔子が世を去ったとき、作法の倍の6年、最も長く喪に服したのも子貢です。おそらくは葬儀も、彼の財産で行われたと思われます。商人として、またやり手の職業外交家として天下を渡り歩いた子貢は、諸国に孔子塾の名を高めつつ、晩年は斉国で生涯を終えました。

いわば孔子塾の出世頭ですが、孔子から小言を言われるなど、論語には不名誉な記述も残っています。その理由は子貢の派閥が絶え、曾子の系統が生き残ったためと思われます。曾子はともかく、その派閥に属すると思われる直弟子は、子貢の能力や出世に嫉妬したのでしょう。

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付記

伝統的解釈

子禽が子貢にたずねた。孔先生は、どこの国に行かれても、必ずその国の政治向きのことに関係されますが、それは先生の方からのご希望でそうなるのでしょうか、それとも先方から持ちかけてくるのでしょうか。子貢がこたえた。先生は、温・良・恭・倹・譲の五つの徳を身につけていられるので、自然にそうなるのだと私は思う。むろん、先生ご自身にも政治に関与したいというご希望がないのではない。しかし、その動機はほかの人とは全くちがっている。先生にとって大事なのは、権力の掌握でなくて徳化の実現なのだ。だから、先生はどこの国に行っても、ほかの人達のように媚びたりへつらったりして官位を求めるようなことはなさらない。ただご自身の徳をもって君主にぶつかっていかれるのだ。それが相手の心にひびいて、自然に政治向きの相談にまで発展していくのではないかと思われる。

以下、訳者のメモです。
『莊子』讓王
原憲居魯,環堵之室,茨以生草,蓬戶不完,桑以為樞而甕牖,二室,褐以為塞,上漏下溼,匡坐而弦。子貢乘大馬,中紺而表素,軒車不容巷,往見原憲。原憲華冠縰履,杖藜而應門。子貢曰:「嘻!先生何病?」原憲應之曰:「憲聞之:『無財謂之貧,學而不能行謂之病。』今憲,貧也,非病也。」子貢逡巡而有愧色。原憲笑曰:「夫希世而行,比周而友,學以為人,教以為己,仁義之慝,輿馬之飾,憲不忍為也。」
『史記』仲尼弟子列傳
孔子卒,原憲遂亡在草澤中。子貢相衛,而結駟連騎,排藜藿入窮閻,過謝原憲。憲攝敝衣冠見子貢。子貢恥之,曰:「夫子豈病乎?」原憲曰:「吾聞之,無財者謂之貧,學道而不能行者謂之病。若憲,貧也,非病也。」子貢慚,不懌而去,終身恥其言之過也。
『淮南子』氾論訓
秦穆公出遊而車敗,右服失馬,野人得之。穆公追而及之岐山之陽,野人方屠而食之。穆公曰:「夫食駿馬之肉,而不還飲酒者,傷人。吾恐其傷汝等。」遍飲而去之。處一年,與晉惠公為韓之戰,晉師圍穆公之車,梁由靡扣穆公之驂,獲之。食馬肉者三百餘人,皆出死為穆公戰于車下,遂克晉,虜惠公以歸。此用約而為德者也。
『孔子家語』七十二弟子解
陳亢,陳人,字子元,一字子禽。少孔子四十歲。

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