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論語詳解011学而篇第一(11)父いまさば*

論語学而篇(11)要約:後世の創作。親の没後も三年間はその言いつけを守らないと、孝行者ではない、と孔子先生。ですが先生は孝行を説きません。儒教が孝行を言い出したのはずっとのちの時代、それも就職のためのウソ八百でした。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰父在觀其志父沒觀其行三年無改於父之道可謂孝矣

*後半は論語里仁篇20と同じ。

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰父在觀其志父没觀其行/三年無改於父之道可謂孝矣

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

※後半が一致する論語里仁篇20にも存在しない。

標点文

子曰、「父在觀其志、父沒觀其行。三年無改於父之道、可謂孝矣。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 父 金文在 金文観 金文其 金文 父 金文勿 金文観 金文其 金文行 金文 三 金文年 金文無 金文改 金文於 金文父 金文之 金文道 金文 可 金文謂 石鼓文孝 金文矣 金文

※沒→勿。論語の本章は、「志」の字が論語の時代に存在しない。「行」「孝」の用法に疑問がある。少なくともその部分は、戦国時代以降の改変が加えられている。

書き下し

いはく、ちちらばこころざしちちよをさらばおこなひる。三ねんちちみちあらたむるからば、このゐやし。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 キメ
先生が言った。「父親が生きていればその思いを時間を追って見定めるようにし、亡くなったらその行いを時間を追って見る。その上で三年間父親の決めた方針を変えないのなら、孝行と評価してよい。」

意訳

孔子 人形
親が亡くなっても三年間は、その言いつけを守らないと、けしからん不孝者になるのであるぞよ。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「父の在世中はそのお気持を察して孝養をつくし、父の死後はその行われた跡を見て、すべての仕来りを継承するがいい。こうして三年の間父の仕来りを改めず、ひたすら喪に服する人なら、真の孝子といえるであろう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「父親在時世時看其志向,父親死後看其行動,三年內不改父親的規矩習慣,可算孝了。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「父親の生前はその志を見、父親の死後はその行動を見る。〔死後〕三年以内に父親の定めたおきてと習慣を改めないなら、孝行者に含めてしまってもよい。」

論語:語釈


子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

父(フ)

父 甲骨文 父 字解
(甲骨文)

初出は甲骨文。手に石斧を持った姿で、それが父親を意味するというのは直感的に納得できる。金文の時代までは父のほか父の兄弟も意味し得たが、戦国時代の竹簡になると、父親専用の呼称となった。詳細は論語語釈「父」を参照。

在(サイ)

才 在 甲骨文 在 字解
(甲骨文)

論語の本章では、存在する→”生きている”。「ザイ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。

觀(カン)

観 甲骨文2 観 字解
(甲骨文)

論語の本章では”並べて見比べる。つまびらかに見きわめる”。新字体は「観」。『大漢和辞典』の第一義は”みる”、以下”しめす・あらはす…”と続く。初出は甲骨文だが、部品の「雚」の字形。字形はフクロウの象形で、つの形はフクロウの目尻から伸びた羽根、「口」はフクロウの目。原義はフクロウの大きな目のように、”じっと見る”こと。詳細は論語語釈「観」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。原義は農具の。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。”それ・その”のような人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

志(シ)

志 金文 志 字解
(金文)

論語の本章では”こころざし”。『大漢和辞典』の第一義も”こころざし”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は”知る”→「識」を除き存在しない。字形は「止」”ゆく”+「心」で、原義は”心の向かう先”。詳細は論語語釈「志」を参照。

沒(ボツ)

没 秦系戦国文字 没 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”世を去る”。新字体は「没」。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。部品の「𠬛ボツ」には”くぐる・しずむ”の語釈が『大漢和辞典』にあるが、初出は後漢の『説文解字』。ただし近音の「フツ」が甲骨文より存在し、”無い”を意味する。詳細は論語語釈「没」を参照。

行(コウ)

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”行い”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

三(サン)

三 甲骨文 三 字解
(甲骨文)

論語の本章では”三たび”。初出は甲骨文。原義は横棒を三本描いた指事文字で、もと「四」までは横棒で記された。「算木を三本並べた象形」とも解せるが、算木であるという証拠もない。詳細は論語語釈「三」を参照。

年(デン)

年 甲骨文 年 字解
(甲骨文)

論語の本章では”とし”。初出は甲骨文。「ネン」は呉音。甲骨文・金文の字形は「秂」で、「禾」”実った穀物”+それを背負う「人」。原義は年に一度の収穫のさま。甲骨文から”とし”の意に用いられた。詳細は論語語釈「年」を参照。

無(ブ)

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

改(カイ)

改 甲骨文 改 字解
(甲骨文)

論語の本章では”あらためる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「巳」”へび”+「ホク」”叩く”。蛇を叩くさまだが、甲骨文から”改める”の意だと解釈されており、なぜそのような語釈になったのか明らかでない。詳細は論語語釈「改」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~を”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”。足を止めたところ。原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。

道(トウ)

道 甲骨文 道 字解
「道」(甲骨文・金文)

論語の本章では”やり方・きまり”。「ドウ」は呉音。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。詳細は論語語釈「道」を参照。

可(カ)

可 甲骨文 可 字解
(甲骨文)

論語の本章では”してもよい”。積極的に認める意味ではない。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

謂(イ)

謂 金文 謂 字解
(金文)

論語の本章では”評価する”。同じ「言う」でも、”事・人を論じて判断を言う”こと。『大漢和辞典』の第一義は”あたる”。現行書体の初出は春秋の石鼓文。論語の時代の金文では、部品の「胃」と書き分けられていなかった。「胃」の初出は春秋早期の金文。詳細は論語語釈「謂」を参照。

孝(コウ)

孝 甲骨文 孝 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”年下の年上に向けた敬意”。初出は甲骨文。原義は年長者に対する、年少者の敬意や奉仕。ただしいわゆる”親孝行”の意が確認できるのは、戦国時代以降になる。詳細は論語語釈「孝」を参照。

舜 孟子
『史記』では古代の聖王・シュンを、夏-殷-周王朝より前の人物として取り上げ、並外れた孝行者として持ち上げるが、もとより舜などの聖王は創作された人物であり、孝行を強調することがかえって、実在の人物でないことを示している(論語語釈「舜」)。

その舜を創作したのは孔子より一世紀後の孟子で、その顧客だった斉王は王家を乗っ盗ってから日が浅かった。その先祖に居もしなかった舜を据えることで、孟子は顧客の家格に箔を付けたのである。つまりは商売の都合で作られた人物で、現代人が有り難がる理由は微塵もない。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)~である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

可謂孝矣

論語の本章では”やっと孝行と評価してもいい”。「可」は上記の通り”してもよい”の意で、積極的に認める意ではない。従って前句の「三年無改於父之道」を条件として、”そこまで行って…だ”ということ。「矣」は強い断定で、ここでは”やっと”。

ただし解釈は大きく二つに分かれ、以下のどちらなのかは原文に明記されていない。

  1. 三年改めないほど子が立派→子は孝行者
  2. 三年改めさせずに済むほど父が立派→子は孝行者

だから読者が好きなように選んでもいいのだが、本章は後世の偽作が確定し、「子が立派」という価値観で解釈するのは無理がある。

対して、史実の孔子が子としての立場から父を論じた言葉は伝わらない。誰が父だか知らなかったためで、おそらく孔子の母・顔徴在も、”たぶんあの人だ”という感覚があったに過ぎない。詳細は孔子の生涯(1)を参照。

顔徴在は巫女であり、各古代文明で巫女が娼婦を兼ねていたように、孔子の父も母の客だったと思われる。加えて孔子は父として、たった一人の息子に冷たかったことが論語季氏篇16に記されている。その息子・孔鯉に先立たれた後も、ずいぶん冷たいことを言っている。

孔子 ぼんやり 孔鯉
顔回のように出来のいいのも、愚息のように出来の悪いのも、共に父親にとっては息子には違いない。(論語先進篇7

ところが最愛の弟子の一人、顔回についてはこういうことを言っている。

孔子 慟哭
顔回は私を父親のように慕ってくれた。しかし私は実の子のように扱ってやれなかった。(論語先進篇10)

孔子は実子の出来の悪さと、顔回の出来の良さを思いながら、実であれ疑似であれ父子関係は、父の方により責任があると感じていたように見える。また若い頃では、斉の景公に「父は父、子は子らしくあれ」と説教し(論語顔淵篇11)、晩年では楚の葉公にこう言っている。

孔子 たしなめ 葉公

たとえ盗みを働こうとも、父は子をかばい、子は父をかばうのが、正直というものですぞ。(論語子路篇18)

生涯を通じて、一方的な親孝行を説いていない。孔子にとって、親子関係もまた双務的だったのだ。もし論語の本章が史実なら、孔子はこう言った可能性が高い。

孔子 叫び
世の親御さんたち。よーく聞きなさい。子はじっと親の言動を見ておりますぞ。死後三年過ぎても子供に文句を言われないようでないと、子は孝行者に育ちませんぞ。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は定州竹簡論語にも漢石経にも無い。「三年不改父道」は、春秋戦国時代の誰も引用せず、事実上の初出は、前漢儒が周の礼法をでっち上げるために書いた『小載礼記』になる。

子云:「君子弛其親之過,而敬其美。」《論語》曰:「三年無改於父之道,可謂孝矣。」《高宗》云:「三年其惟不言,言乃讙。」


(孔子)先生が言った。「君子は親の間違いを大目に見て、親の美点を敬うものだ」と。論語に曰く、「三年…」と。『書経』に殷の高宗の言葉として曰く、「三年間まったくものを言わず、ひとたび言い出せば耳を覆いたくなるほど厳しい言葉だった」と。(『小載礼記』坊記17)

前漢年表

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本章の後半が重複する論語里仁篇20も、定州竹簡論語に無い。仮に本章が偽作の場合、解釈は全く従来訳の通り。元ネタはおそらく、論語陽貨篇21の「宰我問う三年」。この章も偽作だが、『史記』仲尼弟子列伝に引用があり、すくなくとも前漢武帝期までには存在した。

解説

カーラ ラジオ
論語と言えば儒教、儒教と言えば親孝行、と思われがちだが、ラジオはまともでも放送局とその上の政府が壊れかけている場合のように、儒教が孝行ばかり言い立てるようになったのは、孔子没後550年過ぎた後漢からで、それも当時の就職事情がそうさせた。

孔子没後、戦国時代までの儒家は孔子同様、孝行とは相互依存関係だと思っていた。

孔子曰:「君子有三恕:…有親不能報,有子而求其孝,非恕也。」

荀子 論語 孔子 人形
孔子が言ったという。「君子は三つの”恕”を身につけなくてはいかん。…ろくでもない親が子供をいじめておいて、孝行しろと言うのなら、それは”恕”ではあり得ない。」(『荀子』法行7)

論語の時代に無い「恕」を用いていることから(→語釈)、これを孔子が言ったというのはウソだが、同文を前漢初期に成立した『孔子家語』も載せており、前漢までは儒者さえも、一方的親孝行を説かなかったことが分かる。

対して現伝の儒教が親孝行をうるさく言い出したのは、信じがたい偽善がはびこった後漢の時代で、うるさくない親孝行そのものを言い出したのはそれより早いが、孔子没後345年の前漢元光元年(BC134)。それは成人したある若者の、幼少時の虐待経験から偶然始まった。

前漢武帝
当時の皇帝・武帝は、気分次第で家臣を殺す希代の暴君だったが、幼少期に道家マニアの祖母を始め、一族の女からいじられたというトラウマから、親政を始めると単に道家を嫌うために、儒家を持ち上げた。この偶然がなかったら、中国に儒教が根付くことはあり得なかった。

董仲舒
それに付け込んだのが儒者の董仲舒で、機会を逃すものかとばかり武帝に取り入り、ヘンな教えを吹き込んで、年に一人各地方から、儒教的に孝行な者を役人に取り立てさせた。だがそれでも年に一人であり、当時の役人の採用は、高官など既存の役人による推薦が主流だった。

董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。

光武帝
これが後漢になると様子が変わる。創業皇帝の光武帝は、その度を外れた偽善から、「役人には人格者を採れ」と言ったらしい。結果官界は偽善を事とする強欲者だらけになり、仕事をする代わりにせっせとワイロを取り始めた。当然行政の停滞を招き、時の章帝は頭を抱えた。

今刺史、守相不明真偽,茂才、孝廉歲以百數,既非能顯,而當授之政事,甚無謂也。

章帝
こんにち、各地の長官はいかがわしい者ばかり役人に推薦するし、孝行者や寡欲者を装って役人になる者は、年に百人に及ぶが、別にこれと言って才能も無く、仕事をさせてみるとデタラメばかりで、どう評したものか言葉に悩むほどだ。(『後漢書』章帝紀14)

章帝は後漢最後のまともな皇帝で、その死後は外戚・宦官・ワイロ取りの儒者官僚が三つ巴になって社会を食い荒らした(論語解説「後漢というふざけた帝国」)。儒教的孝行の強調は、ひとえに役人になるための手段で、それも本物ではなく、孝行者という名目を取る事だけが目指された。

後漢年表

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従って漢以降の儒者は注釈と称し、論語の本章に勝手な言い分を書き加えた。

子曰父在觀其志父沒觀其行註孔安國曰父在子不得自專故觀其志而已父沒乃觀其行也三年無改於父之道可謂孝矣註孔安國曰孝子在喪哀慕猶若父在無所改於父之道也疏子曰至孝矣 云父在觀其志父沒觀其行者此明人子之行也其其於人子也志謂在心未行也故詩序云在心為志是也言人子父在則已不得專行應有善惡但志之在心在心而外必有趣向意氣故可觀志也父若已沒則子得專行無憚故父沒則觀此子所行之行也云三年無改於父之道可謂孝矣者謂所觀之事也子若在父喪三年之內不改父風政此即是孝也所以是孝者其義有二也一則哀毀之深豈復識政之是非故君薨世子聽冢宰三年也二則三年之內哀慕心事亡如存則所不忍改也或問曰若父政善則不改為可若父政惡惡教傷民寧可不改乎荅曰本不論父政之善惡自論孝子之心耳若人君風政之惡則冢宰自行政若卿大夫之心惡則其家相邑宰自行事無關於孝子也

孔安国 古注 皇侃
本文「子曰く、父在さば…観る」。

注釈。孔安国「父の生前は、子は好き勝手をしてはならない。だからひたすら父の希望を観察し、没後はその行動を思い出しながら従う。…孝子というのは父の死去をあまりに歎き、没後も思慕の念を募らせるのが、当然の道理である。」

〔皇侃〕「付け足し。本章は人の子たる者が当然従うべき原則を説いている。父の志とは、父が果たせなかった思いのことで、『詩経』の序文に言うとおりだ。

本章の心は、父の生前は、子は身勝手をしてはならず、父の気持ちをくみ取って、その望みに沿うように努めることである。だからよくよく父親の望みを観察せねばならないのである。だがもし父が亡くなったら、子は身勝手できるようになる。それはいかんので、子は父親の行いをよく思い出してなお従うべきなのである。

「三年…孝行と言ってよい」というのは、没後三年間も父の生前の姿に従って行動できる者のみが、やっと孝行者の資格を得るということである。

ゆえに、〔為政者の〕孝行には二つの場面がある。一つは子は父の死去を歎くあまり、政策の決断が出来なくなる。だから君主が亡くなると、太子は宰相に三年間政治を委ねるのである。二つは三年の間、子は悲しみのあまり父のやり方を変えたがらないということである。」

ある人1
ある人「もし父親が善人だったら、改めないのは結構ですが、もし悪党で無道で、民の迷惑になっていたら、没後には方針を改めた方がよいのでは?」

〔皇侃〕「本章は、父親の善悪を論じていない。子の孝行を説いているだけだ。君主の性根が悪ければ大臣が政治を取り、大臣の性根が悪ければ家臣が代行するではないか。子の孝行とは関係ないだろうが!」(『論語集解義疏』)

「父親が悪党だったらどうするのだ」という問いに対し、論点をずらして答えをはぐらかしている。これが後漢から三国、南北朝時代に大流行した儒者の偽善というもので、まっとうなものの考えを押しつぶし、インチキとでっち上げで「政治」というものを塗り固めた。

時代が下った宋の儒者を代表する、朱子とその引き立て役が何を言ったか見てみよう。

父在,子不得自專,而志則可知。父沒,然後其行可見。故觀此足以知其人之善惡,然又必能三年無改於父之道,乃見其孝,不然,則所行雖善,亦不得為孝矣。尹氏曰:「如其道,雖終身無改可也。如其非道,何待三年。然則三年無改者,孝子之心有所不忍故也。」游氏曰:「三年無改,亦謂在所當改而可以未改者耳。」

朱子
朱子「父親が在世中は、子は好き勝手できない。勝手をしないからこそ、父の志を知りうる。父が亡くなったら、その後で父の行いを見うる。没後に見たからこそ、父の善悪が分かる。しかし父の道を固く三年間守らないと、孝行者には全然なれない。(父が悪党だったら子も悪党になるからだ。父が悪党で、子が)三年以内に改めてしまったら、たとえ善事を行っても、やはり子は孝行者になれない。」

イン氏(トン)「父の道を生涯守り続けるなら、それはいい事だ。だがもし父が悪党なら、なんで三年も待たねばならぬか。さっさと変えたらいいのだ。それなのに三年間変えないのは、孝行者は改める申し訳なさに耐えられないからだ。」

ユウ氏(游酢)「三年間変えない子は、”おやじはとんでもない奴だった”とブツクサ言いながら、だらだらと父親の真似をしているに過ぎない。」(『論語集注』)

おや? …意外にも奴隷的な親孝行を言っていない。それもそのはず、朱子のおやじはとんでもない暴君で、子=朱子に怨まれていたからだ。卑屈に育てられた子供は将来必ず呵責を始める。現代精神医学の言う通りだ。

尹焞はワイロ取りばかりだった宋儒の中では比較的善良だが、それでも度を超した偽善は共有しており、もの凄く遠回りにものを言っている。「申し訳なさに耐えられない」とは当時の世相に照らすと、「世間体が悪い」ということで、三年変えないと不孝者の烙印を押された。

役人の場合、これはクビになることを意味し、中国では役人とそうでない者の身分差は、主人と奴隷に等しい。身分転落のおぞましさに耐えられないから、世間の目を気にして、ど腐れおやじだろうとその真似を三年間は続ける。きちんと実利と偽善を場合分けしているのだ。

対して孔子は現実政治家で、嘘で塗り固めたお説教を言えばそれでよし、とはしなかった。民が説教にそっぽを向けば、それまでだったからである。加えて革命家でもあった孔子は、役人と違って役立たずな偽善を言って済むような、のんびりした人生を送らなかった。

孔子 哀
確かに孔子は幼少期に父を亡くし、父が誰かも分からないというから、理想的な家庭像をあこがれるように胸に抱いていたふしはある。だからといって論語を通読する限り、出来もしないようなことを、この論語学而篇の読者である初学者に言うような無茶はしなかった。

孔子は同時代の賢者・ブッダと同じく、相手の力量に合わせて教えを説く人であり、それゆえに論語のそれぞれの言葉が、必ずしも論理一貫してはいない。しかし現代の読者としては、それを踏まえて読めばいいのであって、怪しげな儒者の説に、盲目的に従う必要は無いだろう。

余話

忠孝なんて言わなかった

儒教経典には親孝行を専門にする『孝経』があり、その孔子によるお説教の冒頭「身体髪膚はこれを父母に受く、敢えては毀損せざるは孝の始め也」は、日本でも戦前まではよく知られた言葉だった。お説教の聞き手は曽子で、『孝経』は曽子の作だと長い間信じられてきた。

論語 孔子聖蹟図 孝経伝曽
上掲「孔子聖蹟図」は明代の作で、孔子の左側で他の弟子と違った偉そうな服を着たのが曽子だが、曽子は孔子の直弟子ではなく、孔子家の家事使用人に過ぎなかった。『孝経』も春秋末期に存在しない漢字をいくつも使っており、その成立は早くとも戦国時代までしか遡らない。

これは「忠」の字が戦国時代にならないと現れないのと事情を同じくしており、諸侯国同士の戦争が激烈化し、負けると併呑されるようになったことで、領民に「忠君愛国」をすり込む必要が生まれた。戦国時代の軍隊が、徴兵された歩兵を主力にしたからでもある。

親に対する無償の奉仕を説くのが「孝」であり、「忠」は国や君主に対するそれを説いた。虐待がなければ子が親を慕うのは自然だし、迫害がなければ人が郷土愛を持つのは自然でもある。「忠孝」はそれに付け込んだ洗脳装置だが、孔子の教えとはまるで関係が無い。

コメント

  1. ロキ より:

    とても面白く拝見させていただきました。
    子供の頃から、「親孝行は子供の義務」「どんな親でも親は親。産んでくれた事に感謝しなさい」「親孝行=子が親の有難みを感じて敬いや感謝を言動で表す」といった教えに、なんとなく違和感を感じていました。

    敬いや感謝の気持ちは、自然に湧いてくるものであって、そもそも何故他人の感情にガイドラインを付けようとするのだろう? ろくでもない親に育てられたら、敬いや感謝の気持ちなど抱きようが無いでしょうに、といった事を考えていました。
    「孝」を子から親への上下関係とは捉えずに、親⇔子の双方向の関係だと捉えているところにものすごく納得がいきました。

    3年ちゃんと愛情をもって子を育てて、その子孝行(孝→子)があってこそ、親は親孝行(親←孝)を受け取れる資格を持つって事なんですね。

    ここのサイト、記載内容にボリュームがあって、でもどのページもとても面白くて、かれこれ5時間ほど知的で優雅な時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。

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