学而篇第一-12.礼の用は…

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現代語訳と原文・読み下し

高弟の有若ユウジャク先生が言いました。「作法の目的は、人間関係を和ませることにある。我々が模範とすべきいにしえの聖王も、作法を通じた和みをよしとされ、何事も、なごみを目指して作法に励んだ。しかしそれでは作法が無意味になる場合がある。和めばいいと考えるのがそれで、作法でけじめをつけなければ、作法に大した意味はなくなってしまう。」


有子曰。禮之用、和爲貴。先王之道斯爲美、小大由之。有所不行、知和而和、不以禮節之。亦不可行也。

有子ユウシ曰く。うやののりもちゐは、あはひたふとしとす。先王センノウ道もこれしと爲し、小大これる。行はれる所有り、和を知り和するも、禮を以て之ををさめ不れば、おほいに行ふべから不る也。

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語釈

禮(礼)

「示」+「レイ」。白川・藤堂説共に、「示」は祭壇、「豊」は豆という青銅の食器に、供え物の穀物を盛りつけたさま。合わせて神事が原義。
「豊」と「ホウ
新字体では同じ形だが、藤堂説によると別の字で、「豊」は供え物を山盛りにしたさま→ゆたか、「豐」は供え物を形よく整えたさまという。

「禾」+「口」。白川説では「禾」は軍門、「口」は誓約書の容れ物と解し、和平を指す。藤堂説では「禾」を実って円くしなやかに垂れ下がったイネ科、「口」については解説がないが、合わせて和らぐ事を指す。

解説

伝統的解釈に大きな異議はありませんが、回りくどいと感じます。

礼が無ければ礼に意味がない?

回りくどいのも当然で、原文がそもそも回りくどいのです。例えば幼稚園児がワイワイと互いに溶け込む場合でも、先生が「お行儀よくしなさい!」と言わねば静かにならないように、有若は「作法がなければ作法に大した意味はない」と循環論理を言っているに過ぎません。


つまり有若は、遠回しに「和みより作法」と言っているのです。論語当時の論理学はまだ原始の段階にあり、論理的に言ったかではなく誰が言ったかに重きが置かれました。それだけに頭でっかちの有若「先生」は、後世の儒者たちにとって都合がよかったのです。

彼らの伝統的解釈を疑わず「た行うべからざる也」と読み下せば、もっと意味は曖昧になります。「亦」は第一章同様に「大いに」の意味で、「礼が大して行われなくなる」の意。作法の師匠として売り出す有若にとって、それこそメシのタネに関わる問題なのでした。

「礼」と孔子塾の成立

「礼」は、孔子塾で六つの必須科目、六芸の筆頭で、儀式・祭礼の式次第や作法のことです。

この作法には、重大な意味がありました。祭政一致の当時、宮廷で神を祭る式次第に誤りがあれば、凶作や戦乱を招くと恐れられましたし、各家庭の祭礼にも、誤りがあれば先祖や神々がたたりを成すと、本気で信じられていたからです。しかしその詳細を知る人材は不足でした。

孔子塾の成立意義は、ここにありました。礼を教える学校らしきものが無い中で、身分国籍を問わずそれを教えてくれるとあって、弟子が一説には三千人も集まったのです。彼らにとっての礼は、日々の生活費稼ぎに、また就職に必須の資格とあって、座学と稽古に励んだのです。

しかし教える孔子にとっては、礼は単なる資格ではありません。礼を通じて仁を体得し、その仁者が人願間や諸国間の関係をまろやかにし、ついには天下を太平に導くという、大いなる理想を実現させるための教養でした。従って、心のこもらない礼には意味がありません。

心がこもらねば、人間関係がまろやかにならず、理想は実現しないからです。ところが有若は、今回で「和みより作法」と言っています。彼もまた孔子塾ではありふれた、メシのために学ぶ一人に過ぎなかったわけです。このためか、孔子は有若を、とりたてて褒めていません。

論語における「礼」の価値

それどころか論語には、有若が孔子から直に教わった記述もありません。それにもかかわらず有若の言葉が論語に記され、のちに先生と尊称された理由は、まさにこの平凡さにあったでしょう。有若は孔子の弟子ではありますが、理想を実現する同志ではなかったのです。

だからでしょうか、有若は孔子の放浪の旅に同行していません。時に死の危険さえあった旅に、連れて行くほどの志はないと、孔子の方が見抜いたのかも知れません。また有若は頭でっかちで、放浪に耐える体力や技能もないと思われていたふしさえあります。

礼に話を戻せば、もちろん孔子とて弟子の昼寝を叱ったように、放埒でよいとは言いませんでした。しかし何のための礼かという一線は、生涯崩していません。対して儒者の主催する礼の作法は、儒教の地位向上に伴って、時代を下るにつれどんどん煩雑になりました。

それに対して孔子が教えた当時の礼は、史料が不十分でどのようなものであったかはっきりしませんが、後世よりはるかに簡素だったはずです。それは論語が堅苦しく読まれるようになった事情と似ており、それだけに論語の中の礼を、あまり仰々しく考える必要はないでしょう。

付記

伝統的解釈

有先生がいわれた。礼は、元来、人間の共同生活に節度を与えるもので、本質的には厳しい性質のものである。しかし、そのはたらきの貴さは、結局のところ、のびのびとした自然的な調和を実現するところにある。古聖の道も、やはりそうした調和を実現したればこそ美しかったのだ。だが、事の大小を問わず、何もかも調和一点張りでいこうとすると、うまくいかないことがある。調和は大切であり、それを忘れてはならないが、礼をもってそれに節度を加えないと、生活にしまりがなくなるのである。

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