学而篇第一-16.人の知をおさめざるを…

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現代語訳と原文・読み下し

先生が言いました。「私は、誰かがその見識を磨かないのは気にならないが、人を人とも思わないのは気になるね。」


子曰。不患人之不己知、患不知人也。

子曰く。人之知るをおさるをうれへず、人を知ら不るを患ふる也。

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語釈

白川説では直角定規の形で、のちに「紀」と書かれるようになり、正す、修正する、の意味。自己の意味に用いるのは転用に過ぎないという。藤堂説では土器に描かれた文様の一部で、屈曲して目立つ目印の形を描いたもの。人の注意を呼び起こすことから、呼び起こされた自己を指すようになったという。

解説

今回は伝統的解釈に、大いに異議があります。

人之不己知(ひとのしるをおさめず)の解釈

伝統的には「他人が自分を評価しない」と解釈しますが、それなら語順が「人之不知己ひとのおのれをしらざる」のはずです。「不」が否定を表すのは言うまでもありませんが、ならばその次に来る漢字は動詞でなければ意味不明になります。従って新釈では、「他人が知を正そうとしない」としました。

中国語には活用や変化がありませんから、語順は極めて重大です。この点太古の殷代では、目的語が代名詞や指示詞で、かつ否定文の場合に限り、否定-目的語-動詞の順になるのだそうです。しかし孔子の口語である今回の一節に、太古の例外的文法を当てはめるのは無理です。

殷代(紀元前17世紀頃 – 紀元前1046年)の文例
帝不我又。(かみ我をたすけざるか。)

中国語の歴史は長く、時に民族交代を思わせるほどの変化を起こしましたが、ここに引用した甲骨文の神託伺いのように、生きた孔子が話していたわけではありません。しかも「不己知」の「知」は代名詞でも、指示詞でもありませんから、やはり動詞として読むべきでしょう。

相互リンクで官職独占

このような伝統的解釈が生まれたのは、有名な三国志物語の当初・後漢末で、儒教が国教化されてから300年近くを過ぎ、儒者も至って人が悪くなっていた時代です。偽善を売り物にする彼らへの憤激は、物語に語られている通りですが、それだけに論語の解釈も偽善的でした。

「私は、自分が人に評価されないのは気にならないが、その人を評価しない自分が気になる」と、どこまでも自己犠牲的な解釈通りに、当時の儒者が生きていたのなら良かったのですが、とてものことそうでなかったからこそ、曹操始め豪傑たちに斬って捨てられたのです。
学而第一-16_2_002
当時は世界史教科書の言う郷挙里選の時代で、官職に就くにはなによりも、地元での評判が大切でした。それ無しでは儒者はただの浪人ですから、自分の評判が気にならないわけがないのです。そこで孔子を持ち出して、「まず自分が人を評価しろ」とお説教に仕立てた。

まるでこんにちのサイト運営者が、相互リンクをしたがるようにです。互いに持ち上げて官職をあさる仲間が出来ると、それはもう政治的派閥です。成立の始めに偽善が横たわっていますから、自分と派閥の利権維持しか視野にない、困り者が権力を欲しいままにしたわけです。

さらに当時の官界は儒者よりも、各地の豪族がはばを利かせていました。その教養として論語は読まれていたのですが、その解釈と講釈は、儒者たちが独占しています。豪族もうぶな若様も、疑いようがありませんから、「人を知らざるをうれいて」儒者を立てたことでしょう。

この時期が、論語がむやみに堅苦しくなったはじまりと言っていいのですが、この改変にはもう一つ事情がありました。儒教が国教とはいえ、論語は重んじられていなかったのです。従って儒者にも自由な解釈の余地があったわけで、それだけに時代的風潮が入り込んだのです。

第二の改変は、宋代に朱子によって加えられたものですが、朱子自身も漢代の解釈が意味不明だからこそ、血を通わせようといわば善意で手を加えたのです。その結果は無制限の差別を助長するものでしたが、だからといって漢代の解釈の方に、正当性があるわけではありません。

付記

伝統的解釈

先師がいわれた。人が自分を知ってくれないということは少しも心配なことではない。自分が人を知らないということが心配なのだ。

以下、訳者のメモです。
『論語集解義疏』卷一
子曰不患人之不已知也患已不知人也註王肅曰但患已之無能知也疏(子曰至人也 世人多言已有才而不為人所知故孔子解抑之也言不患人不知已但患已不知人耳故李充云凡人之情多輕易於知人而怨人不知已故抑引之教興乎此矣)

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