八佾篇第三-1.八佾を庭に舞わす…

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現代語訳と原文・読み下し

孔子先生が、門閥家老の李氏について言いました。「我が殿のあるじ、周王陛下だけが許された八佾ハチイツの舞を、自分の屋敷で舞わせるようだが、黙って見ていていいものか? これがまかり通るようなら、他に我慢できない事などないだろう?」


孔子謂季氏。八佾舞於庭、是可忍也。孰不可忍也。

孔子氏をふ。八佾を庭舞はす、是を忍ぶいづれを忍ぶ可からる也。

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語釈

季氏

魯国の三大門閥家老家、三桓の筆頭。魯国公15代桓公の四男に季友がおり、以降その一族は季氏・季孫氏と呼ばれた。費城を根拠地とし、代々司徒=行政長官の役職に就いた。

三桓とその根拠地

三桓とその根拠地

論語時代では魯国公23代昭公がBC517年に季孫氏当主の季孫意如を攻めるが、逆に三桓に追われて国外追放された。

「言」+「胃」。「胃」はふるくは「名付ける」の意味。「言」が加わって、あるものを指して、これはこれこれだと言う。音的には、「あるものをめぐって、そのまわりからこれこれだと言う」。つまり、批評する、あるいは批判する。直に言葉をかける。

八佾

周王の特権である、8×8=64人の踊り。タテヨコ8行8列の四角に並んで舞う。「佾」は人+八+月(にくづき)で、八人の肉体。

諸侯に許されたのはタテヨコ6列、家老格の卿大夫はタテヨコ4列。

「刃」+「心」。粘り強く鍛えられた刃物のような、じっと耐える心。あるいは、研ぎ澄まされた刃のような、よくものが出来る心。

解説

伝統的解釈に異議はありません。

孔子の憤慨ばなし

八佾の舞は本来、季氏より二階級上の周王のみに許された特権でした。封建制の世では身分によって、祭礼や普段の衣食住に決まりがあり、本章の季氏の振る舞いはその秩序=礼を崩す出来事でした。崩れた礼を復古させて秩序の回復を目指す孔子は、それに怒ったのです。

しかし孔子が憤慨したところで、こうした秩序の崩壊は止まりませんでした。それでもこの嘆きが論語に載せられ、その名を取った篇の冒頭に置かれたのは、編纂した弟子たちにとって礼はメシのタネであり、後世に向けてその回復は必要な重大事だと伝えるためでしょう。

一方孔子にとっても礼はメシのタネであると同時に、自分の存在意義でもありました。秩序の維持というならば、下級士族に生まれて家老格にまで上がった孔子自身がその破壊者です。その非難を防いだのは、孔子の人並みすぐれた礼の知識と実践でした。

この点で孔子もまた人間で、礼については意固地になっているように読み取れます。「礼に帰れ」とたびたび言い、本章でその破壊を嘆いたのはそのためでしょう。ただし孔子は日常生活に至るまで礼を外さず一生を終えましたから、おそらく本心でそう思っていたでしょう。

中国と日本の「礼」

その礼は作法であると同時に、法令でもありました。例えば君主の持てる軍隊は、全中国の主権者である王は六軍、12,500×6=7,5000人でした。諸侯たちにも格付けがあって、大国は三軍、中国は二軍、小国は一軍でした。のちの時代では、黄色い服は皇帝のみの特権でした。

乾隆帝

清の乾隆帝

胸に描かれた竜の模様も、皇帝は爪が五本、臣下はそれ未満で、多くは三本でした。自称も皇帝だけが「チン」でした。これらの煩わしい決まりは、ひとえに世の中を秩序づけるためです。荒くれの臣下に困った漢の劉邦が、こうした決まり事で臣下を躾けたようにです。

これを中国らしいおおげさ、と日本人が見るべきではありません。荒くれを率いて政権を立てたのは、源頼朝も足利尊氏も徳川家康も同じだからです。頼朝はこうした作り事に反発して幕府を立てただけあって、鎌倉時代の終わりまで、御家人の殺し合いは収まりませんでした。

尊氏はその反省からか、お作法を武家に持ち込みました。いわゆる、小笠原礼法です。しかし政権基盤の弱さから家臣が従わず、また家臣の家中も治まりませんでした。それで戦国時代になりました。それを収めた家康は、側近に中国のこうした制度を詳しく研究させました。

ですから大名は格式によって、行列や旗差し物の数や江戸城での控え室まで、細かく決められていました。これは武士ばかりでなく、庶民に至るまで同じです。それで二世紀半の平和を手に入れたのですが、人間の作った決まり事は、いつまでも通用するものではありません。

身分秩序を崩す技術革新

史上秩序を崩してきたのは、単なる個人の犯罪増加ではありません。秩序を崩せるだけの力が、技術革新によって生み出されたからです。江戸時代、庶民が使う鎌の形まで決まっていたと言います。それでも人は豊かさを求めて、技術の改良に励み、新たな農具が出来ました。

それで富を蓄えた農民は、当然規制緩和を求めます。しかし既得権益者から見れば、極めて恐ろしい反乱同然に見えます。事情は江戸時代ばかりでなく戦国時代も同様で、生産力が増大したから、大名は何度もいくさを起こせたのです。論語の時代も同様です。
唐箕

鉄器が出現したからです。固く鋭く粘りのある金属器が生産力を上げるのは言うまでもありませんが、鉄はそれまでの青銅器と比べ、資源が豊富でした。孔子より約100年前の管仲は、「天下に銅山は467ヶ所に対し、鉄山は3609ヶ所もある」と言っています(『管子』地數)。

ただし技術的限界から製鉄できたのは、鋼鉄ではなく鋳鉄です。これを悪金と言い、一方で青銅器を美金と呼びました。当時の記録『國語』では、「美金で剣や槍を鋳て、犬や馬で試し切りする。悪金で鋤鍬や斧鉞を鋳て、土で試し切りする」と管仲が言っています。

数多く出回った鋳鉄の農具を庶民が手にし、貴族に規制緩和を求める。増大した税収で、貴族は諸侯に、諸侯は周王に自由な行動を求める。論語の時代には、そういう景色がありました。季氏の越権を嘆いた孔子とその一門も、その時代背景から生まれたのです。

付記

伝統的解釈

先師が季氏を批評していわれた。季氏は前庭で八佾の舞を舞わせたが、これがゆるせたら、世の中にゆるせないことはないだろう。

台湾孔子廟での八佾の舞。

あれれ? 孔子先生が怒らないのかな、と心配になりますが、時代が下るに従って、歴代王朝がどんどん高い爵位を先生に遺贈し、とうとう皇帝並み、いやそれ以上に偉くなってしまいましたから、お作法破りはかろうじてセーフになりそう。
先生も苦笑しているでしょう。

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