八佾篇第三-2.三家は雍を以て…

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現代語訳と原文・読み下し

門閥家老の三家が祖先の祭礼を行い、供え物を並べる際に、周朝廷の儀式歌、雍を歌わせました。

先生が言いました。「♪大臣おとど~たちの~助けにて~。天子~様は~平らかに~。…なんでこの歌を、家老ごときの祭壇で歌うのかね。」


三家者以雍徹。子曰。相維辟公。天子穆穆。奚取於三家之堂。
三家ようを以てつらねたり。子曰く。たすくるはこれ辟公ヘキコウ。天子穆穆ボクボクなんぞ三家之堂取らん。

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語釈

『詩経』周頌に収められた、周王が祖先の祭礼を行う際の祝いの歌。

天子

天から天下の支配を任された者。具体的には夏・殷・周の王と、秦以降の皇帝。

テツ

貫くことで、古くは並べること。先祖の祭礼で供えものを載せた食器を、祭壇に並べていくこと。並べ終えて行き渡ったさまを「徹」と言う。また祭りが終わって片付ける事を「テツ」と言う。この二つは形も音も類似している。

辟公

諸侯。「辟」は人+辛(刑罰を加える刃物)+口で、人の処刑、またはそれを命じ、平伏させる君主が原義。「ヘキ」の音は、平らに横へひらくを意味する。また「避」に通じて避けること。「僻・癖」に通じてよこしまなこと。

穀物がはじけるほど実って、穂を垂れている様子。充実して穏やかなこと。

奚取

宮崎説によると、「どんな取り柄があるのか、猿の物まねで大笑いだ」の意。

霊廟前の高台。

解説

伝統的解釈に異議はありません。

笑ったのか怒ったのか

本章は前章と同じく、三桓による礼の破壊を嘆く孔子の言葉です。雍の歌は孔子の編纂とされる『詩経』にも収められており、うたであることを生かすため上記のように訳しましたが、解釈については詩歌を専門としない筆者の手に余りますので、先学の訳を列挙します。

介添えとして祭りを助けるのは、ほかならぬ公達の面々、なごやかにましますのは、天の御子みこよ(藤堂明保)

並みいる辟公きんだちには周公召公、天子は盛徳の成王がおわした(宮崎市定)

本来周王の祭礼で歌われるべき歌を、家老の祭礼で歌うのは一種の成金趣味で、それゆえに宮崎先生は「猿真似」と孔子が笑い飛ばしたとしています。一方藤堂先生は、この歌は供え物を下げる際の歌だと述べ、家老の越権の沙汰だとして怒ったと解釈しています。

なお「穆」の字について付け足すと、モンゴルのチンギス=ハーンは、若い頃の名をテムジンと言いました。中国人というのは異民族には意地悪で、これを漢字で「鉄木真」と書きました。「情け容赦のない殺人マシーン」を連想させ、事実そういう一面はあります。
八イツ第三-2_2_002
しかしあんまりだ、とのちに清の乾隆帝が言い出しました。モンゴルと並んで中国の征服王朝となった清の満州人は、モンゴルに親近感があったからです。そこで「特穆津」と書き換えさせました。「とりわけ穏やかで大海の如き大人物」を連想させます。

宮崎先生に依れば、「この方が言語学的に正しいのだ! と皇帝は言い張った」そうですが、どうも乾隆帝のご高説は怪しいようだ、と述べています。

付記

伝統的解釈

三家のものが、雍の詩を歌って祭祀の供物を下げた。先師がこれを非難していわれた。雍の詩には、「諸侯が祭りを助けている。天子はその座にあって威儀を正している」という意味の言葉もあるし、がんらい三家の祭りなどで歌えるような性質のものではないのだ。

なお詩歌の訳がむつかしいことについて。百人一首にも収められている、小式部内侍の秀歌も、下記『十訓抄』の記録が残っていなければ、何ともつまらない歌にしか思えません。

和泉式部いづみしきぶ保昌やすまさにて、丹後たんごに下りけるほどに、京に歌合うたあはせありけるに、小式部内侍こしきぶのないし、歌詠みにとられて、歌を詠みけるに、定頼中納言さだよりのちゆうなごんたはぶれて、小式部内侍、つぼねにありけるに、「丹後へ遣はしける人は参りたりや。いかに心もとなくおぼすらむ。」と言ひて、局の前を過ぎられけるを、御簾みすよりなからばかり出でて、わづかに直衣なほしの袖を控へて
大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天の橋立
と詠みかけけり。思はずにあさましくて、「こはいかに、かかるやうやはある。」とばかり言ひて、返歌にも及ばず、袖を引き放ちて逃げられけり。
小式部、これより、歌詠みの世におぼえ出で来にけり。
これはうちまかせて理運のことなれども、かのきやうの心には、これほどの歌、ただいま詠み出だすべしとは、知らざりけるにや。

訳は面倒くさいのでwikiにおまかせ

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