八佾篇第三-3.人にして仁ならざれば…

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現代語訳と原文・読み下し

先生が言いました。「打算の無い愛情を持たぬ者には、作法の習得など何の意味もないだろう。音楽の習得も、何の意味もないだろう。」


子曰。人而不仁。如禮何。人而不仁。如樂何。
子曰く。人にて仁なられば、のりいかならん。人に而て仁なら不れば、如のいとたけや何ならん。

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語釈

「若」と同系の字で、白川説では「女」+「口」(祝詞の容器)。髪を振り乱した巫女が、神の意志を「伺う」さまの象形。神意の通り事を行うことから、「~のごとし」の意。

藤堂説では「A是B」=AはとりもなおさずB、に対し、「A如B」=AはほぼB、を意味し、あのようなもの、あの、の意。大漢和辞典にも「指示語」とある。

解説

伝統的解釈に大きな異議はありません。

音楽はただの娯楽ではない

ただし従来は「如禮何」を「礼を如何いかんせん」と目的語を挟んで読み下します。しかし「如」を指示代名詞「あの」と解せば、変則的に読む必要はありません。受験生泣かせの「如何」と「何如」の違いも、漢文の語順がSVOである原則を覚えていれば、困ることはありません。

つまり「如」を「のような」と理解し、語順通りに「如何A」は「何のようなA=Aはどのようなものか」、「何如A」は「Aのようにするのは何=どうすればAになるか」。江戸時代の儒者のしきたりから、現代人はそろそろ解放されていいかと思います。

さて本章で孔子は、仁を持たぬ人間が作法を身につけても、それは人をだまして食い物にするための道具でしかなく、音楽も同様だと言っています。音楽は孔子にとって娯楽を超えた、礼と並ぶ秩序維持の重大な装置でした。儒教の教説を、まとめて礼楽と呼ぶのはそのためです。

孔子塾の必修科目は六芸リクゲイと言い、作法と法令(礼)・音楽(楽)・弓術(射)・馬車術(御)・文学と歴史(書)・数学(数)です。射と御が戦場で必要であり、礼と書と数が内政外交に必要であることは容易に理解できますが、楽のうらには時代的背景がありました。
六芸

それだけに楽は、他学派や他の文明圏の政治学と違った特徴を儒学に与えています。

孔子と音楽

まず第一に、諸芸に長けた孔子はその中でも、音楽を最も好みました。斉で韶という古楽を学んで、三ヶ月も肉の味を忘れるほど練習に励んだと論語にあります(述而14)。また楽師・師襄子シジョウシについて琴と鼓を習い、十日に一曲と決めて稽古に励みました。

しかし孔子の素早い習得に、襄子が次の曲へ進むよう勧めると、「曲は覚えましたが、まだその数=旋律のことわりがわかりません」と言って進みませんでした。しばらくしてまた勧められると、「曲の志=込められた思いがわかりません」と言って進みませんでした。

しばらくして「数・志」を把握すると、伏せられていたその作曲者が、周の初代・文王だと言い当て、襄子を驚かせました。こうして器楽を学び終えた孔子は、放浪の旅にも琴を持ち歩き、包囲の苦難の中でも音楽を講義して居住まいを崩しませんでした(『史記』孔子世家)。

藤堂先生は「礼と楽には…仁のたましいがあるべきと主張している」と本章を解しますが、孔子にとって作法にまごころが伴わねば無意味なように、音楽にもこころざしがなければ意味がありません。その志とは襄子に語ったように、音楽で何をするかという演奏者の真意でした。

なお師襄子について、魯か衛の楽師と言われていますが、少なくとも魯の人ではないと思います。『史記』孔子世家に「私が衛から魯に戻ると、音楽は正しくなり、雅(宮廷音楽)と頌(祖先の賛歌)はそれぞれ所を得た」とあるからです。おそらく衛の人でもないでしょう。

中国古代における音楽の意味

さて孔子が音楽を好んだからと言って、それだけが六芸に取り入れた理由ではありません。音楽は使いようによって人の心を和ませますから、情操教育として取り入れたのが第二の理由です。それだけに聞いたり学ぶべき音楽は厳選され、「淫ら」とされる音楽は退けました。

例えば孔子の初めての失脚は55歳の時でしたが、その原因となったのが、斉が魯に送りつけた女楽団でした。これにとろけた殿様の定公が、孔子を遠ざけたのです。また同じ斉との外交交渉で、儀式にふさわしくない蛮族の音楽が演奏されるのを見て、孔子は非難しています。

それは礼に反するからでした。孔子の主張では、国政を主催する諸侯の心を乱れさせる音楽は、厳しく退けられるべきものだったのです。それだけに楽は礼と並んで、秩序維持の重要な装置となる資格があったわけです。また琴を習う過程で「数」に言及したのも注目されます。

論語の時代にはすでに、音律の理論は完成していました。それは三分損益法と呼ばれ、ピタゴラス音階と同様の数学的調和を持った音律でした。孔子は統計や帳簿の技術として数を教えたのみならず、このように自然界の原理を把握するために、楽と合わせて六芸に含めたのです。

付記

伝統的解釈

先師がいわれた。不仁な人が礼を行なったとてなんになろう。不仁な人が楽を奏したとてなんになろう。

現代中国映画に描かれた、魯国に送られた女楽団

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