八佾篇第三-6.季氏、泰山に旅す。

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現代語訳と原文・読み下し

門閥家老の季氏が泰山への旅をした。先生が冉有に言った。「お前は止められなかったのか。」答えて言った。「出来ませんでした。」先生が言った。「ああ。かつて泰山は林放と同じでないと言ったのに。」


季氏旅於泰山。子謂冉有曰。女弗能救與。對曰。不能。子曰。嗚呼。曾謂泰山不如林放乎。
季氏、泰山タイザン旅す。子、冉有ゼンユウひて曰く、なんぢとどむあたこたえて曰く、能は。子曰く、嗚呼ああかつて泰山は林放のごとから不と謂ひたる

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語釈

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藤堂説では、諸侯が領内の名山を祭るのも「旅」だという。

謂・曰

」は、「~について言う」。「エツ」は、口から音を出している象形。

白川説では「求」は霊力のあるけもの、「ボク」は「殴る」。殴りつけて呪力を吐き出させ、それで悪霊を食い止めること。藤堂説では「キュウ」と音を出し引き締めること。いずれも「止める」を意味する。

解説

上に掲げたのはとりあえずの直訳です。本章を解釈するには大胆な想像が必要です。話の背景が不明だからです。

泰山の祭祀と先学の解釈

泰山は孔子先生の国、魯国のほぼ真北にある、標高1545mの独立峰です。魯国からは80kmほど、その間は広野ですから、孔子も毎日拝んでいたはずです。山頂に住む神は人間の寿命を帳簿に付け、娘の女神は女性の願いを叶えると信じられ、現在も人気があります。

孔子時代にこの信仰があったか不明ですが、聖山として崇められていたのは間違いありません。孔子より約一世紀前、覇者となった斉の桓公が、王の特権である泰山の祭り=封禅ホウゼンを行おうとして管仲に止められたほどです。唐代では北斗星と並び、「泰斗」と尊称されました。
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一方本章での季氏は旅に出ただけで、封禅を行ったとは書いていません。言わば静岡の人が富士山に登るようなもので、別にいけない事とは思えないのですが、「止められなかったのか」と聞いています。その理由を伝統的には、やはり封禅を行おうとしたのだ、とします。

藤堂先生はその説を取り、前章を引いて最終句をこう解釈しています。

ああ! (神聖なる泰山は、事の無礼かいなかを照覧したまうはず。)なんと泰山が、(いささか礼儀を心得た)かの林放に及ばぬとでも思っているのか!

一方宮崎先生もその説ですが、「泰山と林放を比較するのは無理がある」とします。

嗚呼、お前(=冉有)も昔は泰山の礼について話し合うこと、林放と全く同意見ではなかったのかね。

その無理の理由を先生は、のちの時代儒教が官僚化して弟子にも序列が出来、孔門十哲(十大弟子)の一人冉有が、伝記もない林放と同列では困ったからだ、と言います。両先生ともご説はまことにもっともですが、「祭」と原文にないことに少なからぬ疑問を感じます。

それでも論語を編纂した孔子没後の弟子やその後継者は、封禅でなくとも少なくとも祭祀と考えたでしょう。この篇は多く礼について語られており、ここまでは三桓の越権話が続いているからです。しかしだからといって、季氏の泰山行きが祭祀であった証拠にはなりません。

訳者の解釈

そこで今回は、「こうも読める」という新釈を提示します。その要点は4つです。

  1. 季氏の旅は祭祀か
  2. 止めた理由は何か
  3. 泰山は林放に及ばないと言ったのは誰か
  4. 泰山に旅した季氏とは誰か

まず季氏の泰山行きは祭祀ではなく、普通の物見遊山だと考えます。「祭った」とないのは何より大きいからです。ここで身近に考えると、東京都心から、100km先の富士山はよく見えます。では季氏や孔子が住む曲阜から80kmの泰山まで、当時どれだけ掛かったでしょう。

富嶽三十六景江戸日本橋

葛飾北斎『富嶽三十六景』江戸日本橋

当時の軍隊は、1日12kmを移動しました。これを一舎と言い、「三舎を避く」の語源となっています。季氏の行列もほぼ同じでしょう。行って帰るだけで二週間。それに山登りが加わります。登山道が整備された現在、現代装備で登っても頂上まで、3時間は掛かると言います。

行列を伴う貴族の登山なら、ゆるゆる二三日は泊まりがけでしょう。つまり半月は留守になり、その間家老業務はほったらかしです。権力を欲しいままにしておきながら、遊び歩くなんてとんでもない、と孔子は思ったかも知れません。もし祭祀ならなおさらです。

孔子自身は毎日泰山を拝みながらも、近くを通過しただけで、登ってはないようです。それは尊いお山だからだけでなく、交通が不便で登るに登れず、だから尊く見えもしたのでしょう。一方家老が山伏の真似をするはずが無く、大勢にカゴをかつがせ登ったのでしょう。

つまり孔子にとっては聖山を穢す行為で、職務放棄でぜいたくな道楽です。だからわざわざ「救う」という意味を持たせて、「めろ」と言ったわけです。物理的に危ないのに加えて、当時の常識として、聖山だから祟るかも知れないと思ったのでしょう。

「泰山不如林放乎」の解釈と季氏の当主

次に最終句、かつて「泰山は林放と同じでない」と言ったのが孔子だとした場合。

冉有「林放って偉いですよね。」
孔子「ま、そりゃそうじゃが、泰山ほどではあるまいて。」

と想像できますが、となると対話している現在の孔子の発言「泰山不如林放乎」は、

「ああ。かつて林放は泰山ほど偉くはないと、私は言っただろう。」

となって、話が噛み合いません。では冉有だとした場合。

弟子一同「林放って礼に厳しすぎて近寄りがたいよね。」
冉有「泰山ほどじゃないよ。仲良くしたらどうだい?」

と想像できます。前章で孔子に褒められているほどの林放に史料がないのは、記録されるほど人気がなかったからでしょう。礼をメシのタネと捉えても、自分に対して厳格では困ると考えた弟子一般から、いきなり礼の本質を問うような林放は、敬遠されていたと解するのです。

最後に季氏とは誰かですが、孔子と同時期に生きたのは、おそらく孔子より年長の季桓子と、次代季康子です。冉有が仕えたのは季康子で、孔子を放浪から呼び戻し、教えを受けたのは彼です。となれば泰山に出かけたのも彼で、孔子にとっては年若い弟子の一人でした。

もちろん潜在的には政敵ですが、帰国後の孔子はもはや魯の国政を改革しようとはせず、半ば隠居の上で教育と古典研究に没頭していましたから、季康子に対する敵意はなかったでしょう。となると若い弟子が危ない旅に出るので、それを止めようとした、と解釈できます。
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以上から、下の通り新釈を提示します。

季氏が泰山へ出かけました。先生は冉有を呼んで言いました。「危ないし、たたりがあるかも知れないよ? 止められなかったのかね。」冉有が答えます。「ダメでした。」そこで先生。「うーむ。昔は君も、友人林放の礼に対する厳しさを、それでも泰山の険しさ厳しさとは比較にならない、と言っていたのに。」

付記

伝統的解釈

季氏が泰山の山祭りをしようとした。先師が冉有にいわれた。お前は季氏の過ちを救うことができないのか。冉有がこたえた。私の力ではもうだめです。先師がため息をついていわれた。するとおまえは、泰山の神は林放という一書生にも及ばないと思っているのか。

以下、訳者のメモです。
『論衡』感類9
又問曰:「魯季孫賜曾子簀,曾子病而寢之。童子曰:『華而睆者,大夫之簀。』而曾子感慚,命元易簀。蓋禮,大夫之簀,士不得寢也。今周公、人臣也,以天子禮葬,魂而有靈,將安之不也?」應曰:「成王所為,天之所予,何為不安?」難曰:「季孫所賜大夫之簀,豈曾子之所自制乎?何獨不安乎?子疾病,子路遣門人為臣。病間,曰:『久矣哉由之行詐也!無臣而為有臣。吾誰欺?欺天乎?』孔子罪子路者也。己非人君,子路使門人為臣,非天之心,而妄為之,是欺天也。周公亦非天子也,以孔子之心況周公,周公必不安也。季氏旅於太山,孔子曰:『曾謂泰山不如林放乎?』以曾子之細,猶卻非禮,周公至聖,豈安天子之葬?曾謂周公不如曾子乎?由此原之,周公不安也。大人與天地合德,周公不安,天亦不安,何故為雷雨以責成王乎?」
『後漢書』祭祀上7
建武三十年二月,群臣上言,即位三十年,宜封禪泰山。詔書曰:「即位三十年,百姓怨氣滿腹,吾誰欺,欺天乎?曾謂泰山不如林放,何事汙七十二代之編錄!桓公欲封,管仲非之。若郡縣遠遣吏上壽,盛稱虛美,必髡,兼令屯田。」從此群臣不敢復言。三月,上幸魯,過泰山,告太守以上過故,承詔祭山及梁父。時虎賁中郎將梁松等議:「記曰『齊將有事泰山,先有事配林』,蓋諸侯之禮也。河獄視公侯,王者祭焉。宜無即事之漸,不祭配林。」

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