八佾篇第三-7.君子は争う所無し。

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現代語訳と原文・読み下し

先生が言いました。「君子は争わないものだ。競うとすれば必ずね、弓矢だろうね。互いにお辞儀して射場に出入りし、射終えたらまたお辞儀してお酒を飲む。こういう腕比べこそね、君子にふさわしいのだよ。」


子曰。君子無所爭。必也射乎。揖讓而升下。而飮。其爭也君子。
子曰く。君子は爭ふ所無し。必ずくらべゆみ揖讓じぎしてかつ升下のぼりおりし、而は飮む。その爭ひ也君子なり。

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語釈

爭(争)

藤堂説では、取り合うこと。「争」は、あるものを両者が手で引っ張り合うさま。

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元は弓+手だったが、白川説では青銅器に鋳込む際間違って、身=妊婦と入れ替わったという。

揖讓

藤堂説では、あいさつし、へりくだること。「揖」の礼は両手を胸の前で組む。

解説

伝統的解釈に異議はありません。

論語の時代、弓術は戦士を兼ねる貴族必須の教養で、孔子塾でも必修でした。当時の主力兵器は戦車で、車左シャサ=戦車長ともなれば、弓で遠距離攻撃を担当しなければなりません。なぜ弓兵が指揮官だったかと言えば、弓は武器の中でも、とりわけ習得がむつかしいからです。

当然、長い稽古が要ります。揺れる戦車の上ならなおさら。農耕など生活労働に時間を取られない貴族ですらこうですから、猟師でない庶民に出来る技ではありません。だから徴兵された庶民には、狙いやすく扱いやすく、引きっぱなしの腕力も無用のが渡されたのです。

ところが、この難しさを解決した孔子の孫弟子がいます。文学青年子夏の弟子、李カイです。時はすでに戦国時代、魏国に仕えた李悝は、辺境の代官になりました。西隣は秦国、凶暴無比な秦軍が、毎年のように襲ってくる。一計を案じた李悝は、地域の庶民にお触れを出しました。

「今後裁判でもめた時は、弓で決着を付ける事にする。」領民は日夜争って弓の稽古に励みます。しばらくして秦軍がまたやってきましたが、さんざん射すくめられて逃げ帰りました。まさに智恵の勝利、李悝は民政も巧みだったと言います。
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つまり貴族は、体だけでなく頭を鍛えなければならない。頭の働きは、精神の働きに他なりません。孔子は知識を教えましたが、それを用いる人格の修養に重きを置きました。必修科目に弓を取り入れたもう一つの理由がこれです。

経験のある人はご存じでしょうが、弓は姿勢を正し、心を静め、かつ集中しなければ、当たるものではありません。『弓と禅』にあるように、自我が当てようとするほど当たらず、自分でも弓でもない「それ」が放ち、的を射当てるものです。精神を鍛えるにはうってつけでした。

ですから貴族の弓比べは、当時盛んに行われました。上は周王から下は代官まで、それぞれの主催で行われたのですが、その段階ごとの式次第は、礼に詳しく規定されています。一番盛大な周王の射礼では、楽団が鳴り物を鳴らし、競技が終わった後、射手はお酒を飲みます。

従来では『儀礼』の記載から、敗者の罰杯と解釈しますが、勝った方も飲むようです。ツマミは肉の塩辛、三本脚の付いた手のひらサイズの酒壺の上に、スズメ(ジャク)をかたどった飲み口が付いた青銅の杯、シャクで飲みます。古来褒美に使われ、のちに爵位の意味になりました。
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付記

伝統的解釈

先師がいわれた。君子は争わない。争うとすれば弓の競射ぐらいなものであろう。それもゆずりあって射場にのぼり、勝負がすむと射場を下って仲よく酒をのむ。争うにしても君子らしく争うのだ。

以下、訳者のメモです。
『韓非子』內儲說上
李悝為魏文侯上地之守,而欲人之善射也,乃下令曰:「人之有狐疑之訟者,令之射的,中之者勝,不中者負。」令下而人皆疾習射,日夜不休。及與秦人戰,大敗之,以人之善射也。

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