八佾篇第三-14.周は二代にかんがみて…

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現代語訳と原文・読み下し

先生が言いました。「周王朝は夏・殷二代をよく研究して、匂うように華やかな文化を築いているなあ。だから私は、周の文化に包まれて生きていく。」


子曰。周監於二代、郁郁乎文哉。吾從周。
子曰く。周は二代かんがみて、郁郁乎イクイクコとしてあやなかな。吾は周に從ふ。

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語釈

上から水鏡をのぞくこと。

郁郁乎

文化秩序が整って盛んなさま。華やかなさま。香気がかぐわしいさま。
「郁」は元来地名だが、音が同じ「彧」の代わりに使われ。「彧」とは、飾り付けたほこで、「美しい・うるわしい」を意味する。
「乎」は「はぁ」という音を意味し、このような形容詞に付けられた場合、「その状態を表す」と定義される。

解説

伝統的解釈に異議はありません。

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「史墻盤」(シショウバン)西周時代 口径47.3cm重量12.5kg 周原博物館蔵

漢字の出現

ただし従来は「文哉」を「ブンなるかな」と読みます。対して訳者が「文」を「あやなす」とまで、漢字の訓読みにこだわるのは、そうでもしないと明瞭に漢文が読めないからです。「ジョーバンキシ」と言われて、常盤貴子さんを想像できる人がいるでしょうか?

さて孔子の時代、金属の鏡はまだ無かったはずで、青銅のたらいに水を入れて洗顔し、身繕いしました。周人はじっと自分を眺めるように、夏・殷王朝をの「文」を調べたわけです。「文」とは「あや」と読むように、元は模様の事でした。本章では文とそれに伴う文化のことです。

最も古い漢字は、殷が発明した甲骨文字ですが、形は文字と言うより絵に近く、まさに模様に見えもします。夏に文字はありませんでした。殷の前半にも無かったようです。後半に出現した甲骨文も鋳込み文も短文ばかりで、複雑な話を伝えるには十分ではありません。

では周は文化をどうやって受け継いだのでしょう? この時代、紙はありません。絹はありましたが筆記に使うには高価です。その代わり竹簡・木簡と言って、竹や木の細長い札に文字を書き、綴って巻物(冊)のような形で保管し、持ち歩きました。
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重い青銅器や骨片に文字を刻むより、はるかに情報の取り扱いが楽です。冊を表す文字も、すでに甲骨文字にありました。ITが普及した今、ネット以前の世の中は想像する事すら困難になりつつあるように、文書の出現は、世の中を大きく変えたでしょう。

人道主義の出現

その文字が出現した殷王朝は、神権政治でした。王は占いの解釈権を独占することで、権力を保ちました。しかも残忍なことに、祭りではむやみに人を生けにえにしました。甲骨の中には、人間の頭蓋骨を用いたものまでありました。ずいぶん怨まれたはずです。

しかし周代になると、長文が青銅器に鋳込まれるようになりました。政治が変わったからです。神権政治が終わり、青銅器は神の祭器から人の道具になりました。鋳込まれた周代の長文には、青銅器を褒美として与えた由来や、鋳られた記念の出来事が記されました。

つまり文字も神に祈るためではなく、人が読むためのものとなりました。生け贄も無残と見なされ始め、殷の末裔である宋での生け贄は、非難がましく記録されています。殷の辺境の後進国だった周に、今日にも繋がるような人道主義が芽生えたのです。

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Background:©夏爱克 via https://www.flickr.com/photos/around_the_corner/11775631074/

だから孔子にとって周は、かぐわしい文化の国なのです。しかしここで孔子がため息をつきつつうっとりしているのは、竹簡木簡という物体ではなく、そこに書いてある内容です。それを残した文王や周公がは、さぞ偉かったに違いない、と思ったでしょう。

だからその遠い時代を理想視するのも当然です。しかしこれは儒学に、悪い影響を残しました。新しいものごとを嫌い、過去を過分に美化したのです。過ぎた時代や死者には、誰も反論や反撃ができないからです。漢代に儒教が国教化されると、この弊害はあらわになりました。

付記

伝統的解釈

先師がいわれた。周の王朝は、夏殷二代の王朝の諸制度を参考にして、すばらしい文化を創造した。私は周の文化に従いたい。

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