八佾篇第三-18.君につかえるに…

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現代語訳と原文・読み下し

先生が言いました。「主君にお仕えするのに礼の限りを尽くすと、人はそれを、主君を罠にはめていると言う。」


子曰。事君盡禮。人以爲諂也。
子曰く。君につかふるにうやののりつくくせば、人以てへつらひと爲す也。

語釈

テン

へつらうこと。つくりは「カン」で、同じへつらうにしても、穴にとす事を言う。対して「阿諛追従アユツイショウ」(おもねりへつらう)の「へつらう」は、言葉の隙を突いて機嫌を取る事。

解説

「諂」の解釈を除き、伝統的解釈に異議はありません。

解釈の方向としては孔子の愚痴や世間の無知に向けた批判ではなく、弟子に覚悟を求めたことばと考えます。「同志諸君! 我らの”礼”は世人を驚かせ、恐れ入らせてこそ理想の政治を実現できるだろう。陰口ぐらい言われるのも当然だと覚悟なさい。志を忘れるでないぞ!」と。

自分だけが「礼」を知っている

まず訳者は儒教の「礼」に関する現代の研究について、不案内であるとお断りします。

現在儒教経典として残っている「礼」は、『儀礼ギライ』『礼記ライキ』『周礼シュライ』の三種ですが、いずれも前漢(BC206-AD8)より古い本ではありません。それぞれ「孔子の説を伝えた」と持ち出した儒者が主張した本か、あるいはそれにまつわる議論をまとめた書物です。

つまり孔子の時代(BC551-BC479)、「礼」の規定集があったかどうか不明です。おそらくは口伝や断片が諸国に伝わっているのみで、百科全書が揃っていたとは考えにくいのです。仮にあったとしても、孔子の主張する「礼」は、諸国のそれより煩雑であったと想像できます。

たとえば斉の名家老・晏嬰アンエイが孔子を用いようとした斉公をいさめた言葉があります。

今孔子は容飾を盛んにし、登降之礼、はしりつまびらかにする之節(小走りの礼)を繁くせり。世をかさぬるとも其学はつくす能は不して、其の礼年に当たりても究むる能は不るなり。君之を用いんと欲し以て斉の俗を移さんとせば、以て細民の先となる所に非る也(『史記』孔子世家)

「今孔子は衣冠を整え、儀式での上り下りから走り方(宮廷での臣下は小走りしなければならない)を面倒にしています。何代にもわたって学んでもそれらは学び尽くせず、まして今年から完備出来はしません。殿が孔子を登用して斉国の風習を変えようとしても、領民の模範にはなり得ないのです。」

従って孔子が諸侯の前で演じてみせる作法は、他の貴族から見れば奇異に写り、本章のような非難となって返ってきたのでしょう。「礼をひけらかして殿様を恐れ入らせ、従わせようとしているのだ」と。そしてそれに対する孔子の答えは、「その通りだ」だったはずです。

孔子は散逸した「礼」を自分だけが体得していると思っており、庶民から諸侯に至るまでそれに従えば、おのおの分を守って争いはなくなる、従って天下は太平になると考えていたからです。分からはみ出ないように自分を抑える=克己が、仁に必要なのはこのためです。

子曰く。おのれちて礼にかえるを仁と為す。一日己に克ち礼に復らば、天下仁に帰りなん 。(顔淵1)

人は礼を忘れていた

この点で孔子は円満な人物ではなく、野望をもつ革命家でした。それでも妄想家に終わらなかったのは、門下の人材がきわめて優秀で、超大国の楚ですら、孔子に領地を与えると「国を乗っ取られてしまう」と恐れるほど(『史記』孔子世家)、政治力・軍事力があったからです。

孔子は34の歳、周の都洛邑で老子から「礼」を学んだとされます。つまり本場仕込みでした。老子が道家の言うような実在人物でなかったにせよ、老子的賢者は実在して周の「礼」を教授できたのです。その後も「学を好むというべきのみ」(学而14)で、さらに学んだでしょう。

つまり各地に散逸した「礼」の収集に励んだのです。その上で周のみならず夏や殷の「礼」にも通じ、さらには時代によって「礼」に盛衰があったことを知りました(八佾9)。盛衰は当時も同じで、もし百科全書的に「礼」が各国に完備されていたにせよ、忘れられたのです。

南方の陳国で、矢が刺さった隼が宮廷に落ち、孔子に問い合わせたところ「これは蛮族肅慎シュクシンの矢だ。周の開祖が陳の開祖に与えた同じ矢が、宮廷の倉庫にあるはず」と言い、探せば果たしてありました(『史記』孔子世家)。めでたい開国の神器さえ、当時は忘れられたのです。

「礼」は既得権益者を脅かした

孔子自身が「満ち欠けがあった」と言うように、礼儀作法や各身分の分限は、時代の経済・技術に左右されます。例えば暦の制定を周が独占出来なくなったように(八佾17)、自力で出来る力を持てば、人は自由な行動を求めます。孔子が受け入れられなかったのも当然でした。

すでにそれなしで困らないのに、なぜ面倒な作法を演じなければならないのか。それどころか古い「礼」に従うなら、民から諸侯に至るまで、長年苦労して獲得した権利さえ、手放さなければならなくなります。楚が孔子一門を恐れたのも、最大の理由はそれでした。

楚之祖は周に封じられるに五十里もて子男となのりき。…今孔丘…周召之業を明らかにせるを…則ち楚いづくんぞ世世堂堂方数千里を得ん(『史記』孔子世家)

孔子を恐れた大臣は、「楚の始祖は、たった五十里の地で子爵・男爵を周に許されたに過ぎません。今孔子は周初の昔に戻るよう主張していますが、それなら楚はこの数千里の土地と王という地位を、なぜこれまで保ってこられたのでしょう」と言って、楚王をいさめたのでした。

一般論としても人は「その俗を変え」させられれば必死になって抵抗します。「明日からトサカをつけて外に出ろ」と言われても誰も従わないでしょう。しかし孔子にはトサカこそ天下太平の要であり、その材質や色やかぶり方まで、知っているのは自分だけだったのでした。

付記

伝統的解釈

先師がいわれた。君主に仕えて礼をつくすのは当然だ。然るに世間ではそれをへつらいだという。

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