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論語詳解059八佾篇第三(19)君、臣を使い*

論語八佾篇(19)要約:後世の創作。殿様に君臣の道を問われたニセ孔子先生。互いの真心がその心だと答えます。殿様をバカにする家臣も良くなければ、家臣を手ひどく扱う殿様もいけません。その底にある相互不信を解こうとした作り話。

論語:原文・書き下し

原文(京大蔵唐石経)

定公問君使臣臣事君如之何孔子對曰君使臣以禮臣事君以忠

校訂

東洋文庫蔵清家本

定公問君使臣〻事君如之何/孔子對曰君使臣以禮臣事君以忠

後漢熹平石経

…(之?)…

定州竹簡論語

……事以。」54


→定公問、「君使臣、臣事君、如之何。」孔子對曰、「君使臣以禮、臣事以忠。」

復元白文(論語時代での表記)

定 金文公 金文問 金文 君 金文使 金文臣 金文 臣 金文事 金文君 金文 如 金文之 金文何 金文 孔 金文子 金文対 金文曰 金文 君 金文使 金文臣 金文㠯 以 金文礼 金文 臣 金文事 金文㠯 以 金文

※忠→中。論語の本章は、「忠」が論語の時代に存在しない。「問」「使」「何」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

定公ていこうふ、きみおみ使つかひ、おみきみつかふる、これ如何いかんせん。孔子こうしこたへていはく、きみおみ使つかふにゐやもちゐ、おみつかふるにまめもちひよ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

定公
定公が質問した。「君主が臣下を使い、臣下が君主に仕えるには、どうすればいいか。」孔子が答えて言った。「君主は臣下を使うに当たって礼法に従い、臣下が君主に仕えるに当たっては忠義に従うことです。」

意訳

論語 孔子 人形
定公殿下、家臣を礼法に従って鄭重に使いなされ。勝手気ままにコキ使うと、殿をだまそうと致しますぞ。

従来訳

下村湖人
定公(ていこう)がたずねられた。――
「君主が臣下を使う道、臣下が君主に仕える道についてききたいものだ。」
先師がこたえられた。――
「君主が臣下を使う道は礼の一語につきます。臣下が君主に仕える道は忠の一語につきます。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

定公問:「上級怎樣對待下級?下級怎樣對待上級?」孔子答:「上級尊重下級,下級忠於上級。」

中国哲学書電子化計画

定公が問うた。「上司はどのように部下を扱うべきか? 部下はどのように上司を扱うべきか?」孔子が言った。「上司は部下を尊重し、部下は上司に忠義を尽くすべきです。」

論語:語釈

、「 使 。」 、「 使 。」

定公

定 甲骨文 公 甲骨文
(甲骨文)

論語では、孔子が仕えた魯国公。?ーBC495。位BC509-BC495。魯の第26代君主。名は宋。襄公の子で昭公の弟。家老の闘鶏が元になったいさかいで、国外逃亡した昭公(位BC541-BC510)が晋の乾侯で客死すると、その後を受けて魯国の君主となった。

在位15年。 在位前半では陽虎が実権を握ったが、その後、陽虎が三桓氏を排除しようとして失敗し(BC502)、陽虎は最終的に晋の趙鞅(趙簡子)のもとへ出奔した。

BC501、おそらく孟氏の推薦を受けて、孔子を中都の宰(市長)に任命し、次いで大司冦(最高法官)に任じた。BC500、陝谷の会盟で斉の捕虜になりかけたが、孔子の機転で難を逃れた。その報償として孔子を宰相格に据えたが、BC497、斉の送った女楽団にふぬけ、孔子を遠ざけたと言われる。

「定」の初出は甲骨文。字形は「宀」”屋根”+「𠙵」”くち”+「之」”あし”で、甲骨文の字形には「𠙵」が「曰」”言う”になっているものがある。神聖空間に出向いて宣誓するさまで、原義は”おきて”・”さだめ”。甲骨文では地名に用い、金文では地名のほか”安定”、戦国の金文では”落ち着く”の意に用いた。詳細は論語語釈「定」を参照。

「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義のほか貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

君(クン)

君 甲骨文 君主
(甲骨文)

論語の本章では”君主”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。甲骨文での語義は明瞭でないが、おそらく”諸侯”の意で用い、金文では”重臣”、”君臨する”、戦国の金文では”諸侯”の意で用いた。また地名・人名、敬称に用いた。詳細は論語語釈「君」を参照。

使(シ)

使 甲骨文 使 字解
(甲骨文)

論語の本章では”使う”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。

臣(シン)

臣 甲骨文 臣 字解
(甲骨文)

論語の本章では”家臣”。「ジン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形には、瞳の中の一画を欠くもの、向きが左右反対や下向きのものがある。字形は頭を下げた人のまなこで、原義は”奴隷”。甲骨文では原義のほか”家臣”の意に、金文では加えて氏族名や人名に用いた。詳細は論語語釈「臣」を参照。

事(シ)

事 甲骨文 事 字解
(甲骨文)

論語の本章では”役人として君主に仕える”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。詳細は論語語釈「事」を参照。

如之何(これをいかん)

如何 字解 何如 字解

論語の本章では”これをどうしましょう”。この語義は春秋時代では確認できない。「如何」の間に目的語の「之」を挟んだ形。「何」に「如」”したがう”か、の意。対して「何如」は”どうでしょう”。

  • したがうなに」→従うべきは何か→”どうしましょう”・”どうして”。
  • なにしたがう」→何が従っているか→”どう(なっている)でしょう”

「いかん」と読み下す一連の句形については、漢文読解メモ「いかん」を参照。

「如」の初出は甲骨文。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

「之」の初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”。足を止めたところ。原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。

「何」の初出は甲骨文。原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

孔子(コウシ)

論語 孔子

論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。文字的には論語語釈「孔」論語語釈「子」を参照。

論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。本章もおそらくその一つ。詳細は論語先進篇11語釈を参照。

孔 金文 孔 字解
(金文)

「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「イン」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

對(タイ)

対 甲骨文 対 字解
(甲骨文)

論語の本章では”回答する”。論語では、身分が同格以上の人物に質問され、回答する場合に用いる。つまり敬語の役割がある。本章の場合は主君の定公へ”回答を申し上げる”と敬語に訳してもよい。

初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「サク」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、”率いる”・”用いる”・”携える”の語義があり、また接続詞に用いた。さらに”用いる”と読めばほとんどの前置詞”~で”は、春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

禮(レイ)

礼 甲骨文 礼 字解
(甲骨文)

論語の本章では”礼儀作法”。本章では「忠」字の春秋時代における不在から、”礼儀作法”に限定して解釈するのが妥当。対して孔子生前の「礼」とは、”貴族の一般常識”を意味した。詳細は論語における「礼」を参照。

「禮」の新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。

忠(チュウ)

忠 金文 中 甲骨文
「忠」(金文)/「中」(甲骨文)

論語の本章では”忠義”。初出は戦国末期の金文。ほかに戦国時代の竹簡が見られる。字形は「中」+「心」で、「中」に”旗印”の語義があり、一説に原義は上級者の命令に従うこと=”忠実”。ただし『墨子』・『孟子』など、戦国時代以降の文献で、”自分を偽らない”と解すべき例が複数あり、それらが後世の改竄なのか、当時の語義なのかは判然としない。「忠」が戦国時代になって現れた理由は、諸侯国の戦争が激烈になり、領民に「忠義」をすり込まないと生き残れなくなったため。詳細は論語語釈「忠」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、後漢前期の『白虎通義』(礼楽2)が再録するまで、春秋戦国の誰一人引用していない。もう一つの引用も『後漢書』郭陳伝であり、定州竹簡論語の残簡は、本当に本章のものかといぶかしくなる。少なくとも史実の孔子の言葉ではない。

後漢年表

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解説

論語の本章に言う定公とは、五十代初めの孔子を宰相格に引き上げた国公だが、孔子の過激な政策に途中からついていけず、門閥の郎党による孔子排斥を見て見ぬ振りした。つまり孔子と門閥を天秤に掛けて、自分に都合良く振る舞ったという、ごく当たり前の君主である。

それを踏まえると本章は、上掲の検証に拘わらず、「孔子様は忠義を尽くしたのに、定公は礼法通りに待遇しなかったバカ殿だ」と言いたい儒者の創作に思える。古注では現にそうなっている。何より話の形式が整いすぎており、まるで韻文のようで、人間の肉声とは思えない。

古注『論語義疏』

定公問君使臣臣事君如之何註孔安國曰定公魯君謚也時臣失禮定公患之故問也孔子對曰君使臣以禮臣事君以忠疏定公問至以忠 定公哀公父也亦失禮而臣不服也定公患之故問孔子求於君使臣臣事君之法禮也云孔子對云云者孔子荅因斥定公也言臣之從君如草從風故君能使臣得禮則臣事君必盡忠也君若無禮則臣亦不忠也


本文。「定公問君使臣臣事君如之何」。

孔安国
注釈。孔安国「定公とは魯の君主であり、おくり名である。当時の家臣どもは礼法をわきまえなかったので、それを不愉快に思った定公が問うたのである。」

本文。「孔子對曰君使臣以禮臣事君以忠」。

論語 古注 何晏 古注 皇侃
付け足し。定公は忠義者の極みを問うた(これは江戸儒者の根本武夷による要約)。定公は哀公の父である、そして礼法破りで、家臣も言う事を聞かなかった。定公はそれを不愉快に思って孔子に、君が臣を使い、臣が君に仕える礼法を問うた。

孔子こたえてうんぬんというのは、孔子が定公の性根を叩き直そうとしたのである。家臣が君主に従うのは、草が風になびくようなものだ。だから君主が家臣を従わせることが出来て初めて礼が成立するわけで、だからこそ家臣は主君に忠義を尽くせる。その能が無い主君なら、家臣も忠義になりようがないと言ったのだ。

対してもし本章のようなことを史実の孔子が言ったとすると、訳者は論語の本章に、孔子の無私を見ず、むしろ定公を取り込もうとする私心を見る。

臣→君の関係が忠ならば、どんな忠義も臣次第なのに比べ、君→臣が礼に拠るなら、その礼の専門家こそが孔子だから、つまりは孔子は定公に、全面的に自分に従えと言っている。そしてその主張は、礼法の解釈を独占する後世の儒者にとっても、事情はまったく同じだった。

現伝の儒教が言う「礼」は、孔子生前にはほとんど存在しなかった。むしろ「礼」とは、春秋時代の貴族がわきまえるべき常識という広い意味で、むろん礼儀作法はその中に含まれていたが、政治や戦争でのとっさの判断力のもととなる知識体系を言った。

詳細は論語における「礼」を参照。

前漢になって儒者が自派を帝室に売るに当たって、儒者と帝室に都合よく、その多くを創作したのが現伝の『礼記』のたぐいであり、「礼儀三百、威儀三千」と呼ばれる繁雑な作法が、孔子の時代にあったわけではない。儒者は礼法の解釈を独占して、中国を牛耳ったのである。

そんなものを露知らぬ、放浪して苦労する前の孔子は、自分の正義を疑わず、厳罰主義で魯国を縛り、住民の口を封じた(『史記』孔子世家)。だが門閥家老家の根城破壊は、根城の規模の礼法違反を理由にしたとされるが、本当に当時そんな規定があったか定かでない。

この根城破壊は、むしろ門閥の希望で行われた節がある。当時、根城を預かる代官が、領主に対して謀反を起こすことがあり(論語陽貨篇5)、それに手を焼いた門閥筆頭の季孫家は、むしろ破壊に協力的だった。それ以前に、当時の築城技術では、城壁の維持が大変だった。

その維持費に音を上げた、門閥当主が孔子の提案に乗った節さえある(論語先進篇12余話「カネの切れ目は城の切れ目」)。だが孟孫家の代官が頑強に抵抗したため、破壊は失敗に終わった。城は隙あらば攻めてくる、強国・斉を防ぐ最前線で、代官の言い分にはそれなりに正当性がある。

孟孫家は先代が孔子の才を見出したことをきっかけに、孔子を政界に押し上げた門閥で、むしろ孔子の応援者だったのだが、春秋時代の大貴族は、譜代の家臣や領民にそっぽを向かれると、まず天寿を全うできない。代表例が定公や、先代の昭公や、次代の哀公である。

だから孟孫家の当主である孟懿子は、孔子に味方したくても出来なかった。孔子が根城破壊に伴う門閥の反対で、国を出ることになったと言う『史記』などの説は、実は全くの作り話だ。主君である武帝が気に入っている儒家の開祖の真相を、記せるほど司馬遷は偉くない。

前漢武帝 論語 司馬遷
武帝の機嫌を損なえば、今度はナニだけではなく首までちょん切られるからだ。

余話

成り上がり者のひがみ根性

中華文明の「礼」を積極的に受け入れた例として、以前琉球王国について記した(論語為政篇3余話)。先進地域の礼儀作法を、後進地域が積極的に導入した例はロシアも同様で、ピョートル大帝以降、フランスの宮廷儀礼を取り入れ、エリザベータ女帝時代には定着したらしい。

そこまではよかったが、帝室を支えるべき貴族がかえってロシア語に不案内になってしまい、普段の会話もフランス語を使ったらしい。エカチェリーナ女帝がそうした貴族を戒めて、「(庶民の出である)兵士の前ではフランス語を使うな」と説教した(小野理子『女帝のロシア』)。

トルストイが『戦争と平和』Войнаワイナー и мирミールで主人公の一人を「ピエール」とフランス語読みにしたのは、フランスかぶれの貴族を演出するためだろう。それがボロディノの会戦など前線経験を経て、だんだんとロシア人ピョートルに戻っていくのが話の一つの筋になっている。

そのナポレオン戦争やのちのデカブリストの乱の失敗を経て、ロシアの貴族には深刻な分裂があった。西欧に習うべきとする西欧主義Западничествоザパジニーチェストワと、ビザンツ以来の伝統を守るロシアこそ、神からの特命を受けた選民だとするスラヴ主義Славянофильствоスラワヤナフィーストワとの二分だった。

論語顔淵篇1余話「かぶれ者の饗宴」も参照。

同様の炎症的?反応は我が国にもあった。明治維新が「旧弊打破」を叫ぶ一方で、国粋主義者も勢力を伸ばした。天皇の側近だった元田永孚が説いた神国論を、明治政府は相手にしなかったが、昭和の前半になって火を噴き、狂信的な国家神道を成立させ壊滅的な敗戦を招いた。

アメリカと戦争するなど正気の沙汰ではないが、神国論が反対論を全て封じた。神国である大和民族には大和魂があり、無限の資源だと東条首相以下が言った。負けが込むまで前線に出ず、呉で砂糖饅頭を食っていた山本五十六は、お気に入りの参謀に占いで作戦を立てさせた。

そしてアメリカ相手に半年や一年暴れてみせると大見得を切った。これが日本人の誤断をどれほど強めたか分からない。開戦のほんの前まで、日本人はアメリカに敵対心など持っていなかったが、同時にアメリカがどんなに広大で強力か、ほとんどの日本人が知らなかった。

知っていた一人に松岡洋右がいた。若き松岡は徴兵逃れで渡米し、着いたとたんに奴隷に売られた。のち外相になるとヒトラーとスターリンのご機嫌取りに出向き、ついでに国連を抜けて帰って来た。その間に出来た日米妥協案を、自分の手柄にならぬからと握りつぶした。

松岡も、「アメリカは一発ぶん殴ってやらんとどうにもならぬ」と放言した。

当時の日本の軍事や経済は、アメリカが輸出する石油とくず鉄無しには立ち行かなかった。まともな製鉄も出来なかったわけだ。それを知らぬ間に日本人は開戦を知って、かえって喜んだ人が多かったという。こういう急激な変化、それが病気の場合漢語で「疾」という

元祖の元田は神官ではなく儒者だった。朱子学がどれほど日本人を不幸にしたか分からない。

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