八佾篇第三-19.定公問う。君、臣を使い…

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現代語訳と原文・読み下し

殿様の定公が聞きました。「君主が臣下を使い、臣下が君主に仕えるには、どうすればいいか」。先生が答えました。「君主が作法通りに臣下を〔尊重しながら〕使い、臣下は真心を込めて君主に仕えればようございます。」


定公問。君使臣。臣事君。如之何。孔子對曰。君使臣以禮。臣事君以忠。
定公問ふ。君、臣を使ひ、臣、君につかふるは、これ如何いかんせん。孔子こたへて曰く。君、うやののりを以て臣を使ひ、臣、忠を以て君に事ふべし。

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解説

伝統的解釈に、異議はありません。

孔子にとっての「君臣」

本章とほぼ同じ内容を、孔子は下記で敵役となる、隣国斉の景公に説いています。

景公政を孔子に問ふ。孔子曰く。君は君、臣は臣、父は父、子は子たれ。景公曰く。善き哉。信ずること君は君たら不臣は臣たら不父は父たら不子は子たら不るが如きは、粟有ると雖も吾あにこれを食せんや。(『史記』孔子世家)

君臣親子もそれぞれの分を守る=礼の提唱に、景公は「それはもっともだ。そうでなければメシものどを通らぬ」と納得したのですが、だからといって孔子を用いはしませんでした。

この時景公は魯を訪問中で、孔子はまだ30歳、一介の素浪人に過ぎません。6年後内紛を避けて斉に亡命中の孔子を用いなかったことは、前章で記した通りです。しかし孔子の礼に対する基本理念は、まだ洛邑に留学する4年前にすでに固まっていたことがわかります。

孔子と定公

定公は孔子が50歳の頃、召し抱えて地方都市の代官に任じた魯国の殿様です。
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それまで定公は、三桓の一家・季氏の執事に過ぎなかった、陽虎ヨウコという切れ者に圧迫されていたのですが、陽虎が反乱を起こして失敗、そのまま国外へ逃亡したので、入れ替わるように召し抱えたのです。名代官だったので奉行職に抜擢、孔子もそれに応えようとしました。

外交では定公を捕らえようとした斉の罠をその機転で救い、内政では三桓の根城を破壊して、公権を強めようとしました。しかし最後の一城の破壊に失敗し、討伐軍を率いていた定公も政治にやる気を失いました。加えて斉が送りつけた女楽団にとろけ、孔子をうとんじたのです。

そこで孔子は放浪の旅に出たのですが、だからといって定公は取り立てて暗君とは言えません。当時の下克上はどの諸侯国も同じで、殿様は発揮できる政治力もないのに、やる気を出せと言われても無理だからです。孔子も初めての国政とあって、過剰な期待をしたのでしょう。

本章は地域や職分にかかわらない、国政全般の要点を問答していることから、おそらく定公が斉の罠から逃げ帰り、孔子を大司寇(司法長官)兼外相から抜擢し、宰相格につけたときのやりとりと思われます。そう解すると、命からがら逃げ延びた定公の息づかいが感じられます。

夾谷キョウコクの危機

その罠のあらましは、『史記』によれば次の通り*。


…斉は大国なのをいいことに、しきりに魯国の辺境を削り取っていた。魯の定公の十年、和議が成立したが、斉の家老黎鉏レイショが「魯は孔子を用いて強大化し始めています。この際いっそ…。」と斉の殿様、景公に入れ知恵した。「フムフム」。

「夾谷で講和会談をしましょう」との使いを迎えた定公、普段乗りの車で出掛けようとする。そこで孔子「文武は兼ね備えておくべきで、殿様が国外に出る時は、家臣を連れて行くものです。将軍二人に兵を率いさせて行きましょう」。

さて会談が終わって殿様二人のさかづきごとも終わり、斉の役人が出てきて言った。「余興に、蛮族どもの踊りを披露します」。槍やら旗差し物やらを振り回し、声を上げながら蛮族が定公にせまる。

ここで孔子「無礼ですぞ! 中華の儀式に蛮族の踊りを見せるとは!」景公と筆頭家老の晏嬰アンエイは、そう言われると一言もなく、蛮族を下がらせた。続いてまた斉の役人が出て、「みやびな音楽でも奏でましょう」。ところが出てきたのはお笑い芸人の一団。

孔子がまた言った。「お笑いが殿様を茶化すなどとは! 無礼ですぞ! 即刻処断されたい」。哀れお笑いは手足を切られる。

事が終わって帰国した景公が家臣に言う。「恥をかいたではないか! どうするつもりだ!」まじめ家臣が言う。「どこにでもいる庶民なら、へらへら笑ってごまかしますが、殿はそうもいきますまい。具体的なものでわびるべきです」。斉は削り取った魯の領地を返した。


当時会談にかこつけて、外国の殿様をさらったり殺したりは平気で行われていました。まして大国斉と小国魯ではなおさらです。定公は震え上がって怯えたでしょう。だから本章で、
「ワ…ワシはどうすればいいのじゃ?」「正直に言ってくれる家臣をお使いなさい。」

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定公の息づかいが感じられるでしょうか。

付記

伝統的解釈

定公がたずねられた。君主が臣下を使う道、臣下が君主に仕える道についてききたいものだ。先師がこたえられた。君主が臣下を使う道は礼の一語につきます。臣下が君主に仕える道は忠の一語につきます。

*定公十年春、斉と平らぐ。夏、斉の大夫黎鉏レイショ、景公に言いて曰く、「魯、孔丘を用う、其の勢いは斉を危くせん。」乃ち使いをして魯に好会を為し、夾谷に会せんと告げしむ。魯の定公まさに乗車を以て好往せんとす。孔子、相の事を摂り、曰く、「臣聞く、文事有る者は、必ず武備有り、武事有る者は、必ず文備有り、と。古は諸侯、彊を出づるときは、必ず官を具え以て従う。請う、左右の司馬を具えん。」定公曰く、「よし。」左右の司馬を具え、斉侯と夾谷に会す。壇位を為ること、土階三等、会遇の礼を以て相い見え、揖譲して登る。獻酬の礼畢る。斉の有司、趨りて進みて曰く、「請う、四方の楽を奏せん。」景公曰く、「諾。」是に於いて旌旄、羽袚ウフツ矛戟剣撥、鼓噪して至る。孔子、趨りて進み、歴階して登り、一等を尽くさずして袂を挙げて言いて曰く、「吾が両君、好会を為すに、夷狄の楽、何為れぞ此に於いてせん。請う、有司に命ぜん。」有司、之をしりぞくも去らず。則ち左右に晏子と景公を視る。景公、心にじ、さしまねきて之を去らしむ。頃有りて、斉の有司、趨りて進みて曰く、「請う、宮中の楽を奏せん。」景公曰く、「諾。」優倡侏儒、戯を為してすすむ。孔子、趨りて進み、歴階して登り、一等を尽くさずして、曰く、「匹夫にして諸侯を熒惑ケイワクする者は當に誅すべし。請う、有司に命ぜん。」有司、法を加え、手足、處を異にす。景公懼れてふるえ、義の若かざるを知る。帰りて大いに恐れ、其の群臣に告げて曰く、「魯は君子の道を以て其の君を輔く、而るに子は独り夷狄の道を以て寡人に教え、罪を魯君に得しむ。之を為すこと奈何せん。」有司、進み對えて曰く、「君子は過ち有れば則ち謝するに質を以てし、小人は過ち有れば則ち謝するに文を以てす。君、若し之を悼まば、則ち謝するに質を以てせよ。」是に於いて、斉侯乃ち侵しし所の魯のウン・汾陽・龜影の田を帰し以て過ちを謝す。

現代中国映画に描かれた「夾谷の会」

面倒くさいので字幕はご勘弁。代わりに入れ知恵を一つ。台から出迎えに降りてこない斉の殿様に、顔回が「魯は侯爵、斉は伯爵です。作法に則り、降りてお出迎え願いたい」と言っています。国力と爵位が比例せず、というわけ。
殿様同士の会談を、「会盟」と言います。二種類あって、兵車を伴うのとそうでないのとがありました。映像の演出では、斉は約束を破って兵車を用意しています。あらかじめ見破っていた先生が、ハッタリを用意していたわけですね。
「やるならやってみろ」が出来なきゃ、君子でも男でもない、徳とはそういうものです。

以下、訳者のメモです。
『史記』孔子世家
定公十年春,及齊平。夏,齊大夫黎鉏言於景公曰:「魯用孔丘,其勢危齊。」乃使使告魯為好會,會於夾谷。魯定公且以乘車好往。孔子攝相事,曰:「臣聞有文事者必有武備,有武事者必有文備。古者諸侯出疆,必具官以從。請具左右司馬。」定公曰:「諾。」具左右司馬。會齊侯夾谷,為壇位,土階三等,以會遇之禮相見,揖讓而登。獻酬之禮畢,齊有司趨而進曰:「請奏四方之樂。」景公曰:「諾。」於是旍旄羽袚矛戟劍撥鼓噪而至。孔子趨而進,歷階而登,不盡一等,舉袂而言曰:「吾兩君為好會,夷狄之樂何為於此!請命有司!」有司卻之,不去,則左右視晏子與景公。景公心怍,麾而去之。有頃,齊有司趨而進曰:「請奏宮中之樂。」景公曰:「諾。」優倡侏儒為戲而前。孔子趨而進,歷階而登,不盡一等,曰:「匹夫而營惑諸侯者罪當誅!請命有司!」有司加法焉,手足異處。景公懼而動,知義不若,歸而大恐,告其群臣曰:「魯以君子之道輔其君,而子獨以夷狄之道教寡人,使得罪於魯君,為之奈何?」有司進對曰:「君子有過則謝以質,小人有過則謝以文。君若悼之,則謝以質。」於是齊侯乃歸所侵魯之鄆、汶陽、龜陰之田以謝過。
『春秋』定公十年
(左傳)
夏,公會齊侯于祝其,實夾谷,孔丘相,犁彌言於齊侯曰,孔丘知禮而無勇,若使萊人以兵劫魯侯,必得志焉,齊侯從之,孔丘以公退,曰,士兵之,兩君合好,而裔夷之俘,以兵亂之,非齊君所以命諸侯也,裔不謀夏,夷不亂華,俘不干盟,兵不偪好,於神為不祥,於德為愆義,於人為失禮,君必不然,齊侯聞之,遽辟之,將盟,齊人加於載書曰,齊師出竟,而不以甲車三百乘從我者,有如此盟,孔丘使茲無還揖對曰,而不反我汶陽之田,吾以共命者,亦如之,齊侯將享公,孔丘謂梁丘,據,曰,齊魯之故,吾子何不聞焉,事既成矣,而又享之,是勤執事也,且犧象不出門,嘉樂不野合,饗而既具,是棄禮也,若其不具,用秕稗也,用秕稗君辱,棄禮名惡,子盍圖之,夫享所以昭德也,不昭不如其已也,乃不果享,齊人來歸鄆讙龜陰之田。
(穀梁傳)
夏,公會齊侯於頰谷。公至自頰谷。離會不致,何為致也?危之也。危之,則以地致何也?為危之也。其危奈何?曰頰谷之會,孔子相焉。兩君就壇,兩相相揖。齊人鼓噪而起,欲以執魯君。孔子歷階而上,不盡一等,而視歸乎齊侯,曰:「兩君合好,夷狄之民何為來?」為命司馬止之。齊侯逡巡而謝曰:「寡人之過也。」退而屬其二三大夫曰:「夫人率其君與之行古人之道,二三子獨率我而入夷狄之俗,何為?」罷會,齊人使優施舞於魯君之幕下。孔子曰:「笑君者罪當死!」使司馬行法焉,首足異門而出。齊人來歸鄆、言雚、龜、陰之田者,蓋為此也。因是以見雖有文事,必在武備,孔子於頰谷之會見之矣。晉趙鞅帥師圍衛。齊人來歸鄆、讙、龜、陰之田叔孫州仇、仲孫何忌帥師圍郈。
(公羊傳)
夏,公會齊侯于頰穀。公至自頰穀。
齊人來歸運、讙、龜陰田。齊人曷為來歸運、讙、龜陰田?孔子行乎季孫,三月不違,齊人為是來歸之。

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