為政篇第二-3.之を道びくに…

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現代語訳と原文・読み下し

先生が言いました。「為政者が民を武力で威嚇して命令で誘導し、刑罰でしつけるから、逃げ回って恥とも思わない。しかし民を利益で誘導し、作法で躾けるなら、恥を知るしまじめになる。」


子曰。道之以政、齊之以刑、民免而無恥。道之以徳、齊之以禮、有恥且格。

子曰く。これみちびくにまつりごともってし、之をととのふるにつみするを以てすれば、民まぬが恥無し。之を道くにめぐみを以てし、之を齊るにうやののりを以てせば、恥有りてただし。

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語釈

白川説では、征伐することを「正」といい、打って攻撃することを「ボク」という。ここから、武力で支配すること。藤堂説では、つくり「ボク」は「止」(あし)が「一」(目標線)に向かって真っ直ぐ進むさまで、真っ直ぐに整えること→社会を整える全ての仕事。

齊(斉)

白川説では、三本のかんざしが揃ったさま。藤堂説では、◇印が揃ったさまで、のちに棒がつけられたという。いずれも揃っていることから、整った、等しい。

藤堂説ではつくりを「ボク」(あし)+四角い石と解し、足が硬い四角い石につかえて止まったさまとする。全体でつかえて止める堅い木の棒。ここから硬い芯棒→人の芯となる「人格」、堅い木で作った「枠」、芯に届くまで「つきつめる」、固い角目を立てて「正す」。

解説

伝統的解釈の読み下しに異議はありません。解釈はやや異なります。

権力には威力が伴う

「徳」はなにか優しげな人徳でなく、利益、そうでなければ為政者の持つ人格的迫力です。スターリンやヒトラーのような為政者のもとでは、誰もが「格」=カタにはまる現実を意味しています。従って「政」との違いは、白川説に従えば武力で威嚇するかどうかです。

之を道びくに…1

現代の独裁者なら、必ず強大な軍事力や警察力を伴いますが、そうした武力をちらつかせない方法がある、というのが孔子の立場です。ちらつかせてしまえば、それは仁者や望ましき君子ではなくなるからです。この立場は当時も今も、理解するのは容易なことではありません。

その第一歩となるのが、孔子が武士の家の出で、自身も武術の達人だったことです。少なくとも当時の戦争に必要な、馬車術と弓術は孔子塾でも教えた必須科目でした。弟子にも学問ばかりでなく、戦場で武将としても名を挙げた、冉求ゼンキュウ樊遅ハンチのような人物も居ます。

「徳」と隠然たる暴力

現代に生きる武道の師範たちは、総じてみな温厚です。そうでなければ弟子が逃げてしまい、生活に困る、という現実もありますが、引退した武道家もやはり、温厚なことがほとんどです。しかしだからといって、そうした先生方がケンカに弱いかと言えばそうではありません。

素手で難なく人を殺せてしまうのが、そうした師範先生です。弟子は稽古を付けて貰えば、温厚な師範がどれだけ強いか、体でわかります。だから決して逆らいませんし、長く厳しい稽古にも耐えるのです。こうした隠然たる人格的迫力を、日本剣道では「気位きぐらい」と呼びます。

師範ならずともこうした気配のなんたるかは、早ければ初段を通過する頃にわかるようになります。しかし残念ながら、これは言葉で説明しても理解されがたいのです。そして孔子は武術の達人でした。一方弟子の多数派や後世の儒者は、揃って青白きインテリでした。

従って代々論語に注釈をつけながらも、公然の武力を伴った「政」と隠然の武力を伴った「徳」の違いは、儒者には理解できませんでした。日本の漢学者ははぼ武士だったはずですが、中国の古典を尊崇するあまり、多くはこの違いに気付きませんでした。

あるいは言うのをはばかりました。従って伝統的解釈のように、徳を日本語に置き換えようとはしなかったのです。こんにちの日本で漢文を読む学者や作家も、多くは武道の気位のようなものとは無縁のはずです。それゆえに、論語は現代日本人には難解と言えるのです。

「礼」の効果

しかし「礼」については、理解がたやすいかも知れません。法事で騒ぎを起こす人が少ないのは、その得も言われぬ儀式の雰囲気に呑まれるからです。「王様は裸だ」と子供が言っても通じぬようにです。しかし大人を含め過半数が言い出したら、儀式はそこで崩壊するでしょう。

ルーマニアの独裁者・チャウシェスク大統領が国民大会という儀式の演説中に、非難の声が挙がり一挙に政権が崩壊したようにです。しかし古代人のほとんどは、そんな光景を目にしたことはありません。いかめしく整えられた儀式の場では、乱暴者もおとなしくなったのです。

孔子から300年後の前漢時代初頭、そうした出来事がありました。

帝国を建てた劉邦リュウホウは、即位はしたものの困っていました。家来が言うことを聞かず、宮殿を見回れば、昼間から酔っぱらって、刀で柱に斬りつけている者、おおっぴらに謀反ムホンの相談をして集まる者。無理もありません、直前まで家来は、秦帝国崩壊後の戦場にいたからです。

そこで劉邦は儒者のシュク孫通を呼びました。儀式開催に通じていたのは、儒者だけだったからです。お任せあれ、と叔孫通は劉邦を拝む儀式を開催。静まりかえった会場で、儒者たちが不作法者を見張っています。雰囲気に呑まれ、それからは暴れ者もおとなしくなったのでした。

付記

伝統的解釈

先師がいわれた。法律制度だけで民を導き、刑罰だけで秩序を維持しようとすると、民はただそれらの法網をくぐることだけに心を用い、幸にして免れさえすれば、それで少しも恥じるところがない。これに反して、徳をもって民を導き、礼によって秩序を保つようにすれば、民は恥を知り、みずから進んで善を行なうようになるものである。

以下、訳者のメモです。
『史記』叔孫通列伝
漢五年,已并天下,諸侯共尊漢王為皇帝於定陶,叔孫通就其儀號。高帝悉去秦苛儀法,為簡易。群臣飲酒爭功,醉或妄呼,拔劍擊柱,高帝患之。叔孫通知上益厭之也,說上曰:「夫儒者難與進取,可與守成。臣願徵魯諸生,與臣弟子共起朝儀。」高帝曰:「得無難乎?」叔孫通曰:「五帝異樂,三王不同禮。禮者,因時世人情為之節文者也。故夏、殷、周之禮所因損益可知者,謂不相復也。臣願頗采古禮與秦儀雜就之。」上曰:「可試為之,令易知,度吾所能行為之。」
於是叔孫通使徵魯諸生三十餘人。魯有兩生不肯行,曰:「公所事者且十主,皆面諛以得親貴。今天下初定,死者未葬,傷者未起,又欲起禮樂。禮樂所由起,積德百年而後可興也。吾不忍為公所為。公所為不合古,吾不行。公往矣,無汙我!」叔孫通笑曰:「若真鄙儒也,不知時變。」
遂與所徵三十人西,及上左右為學者與其弟子百餘人為綿蕞野外。習之月餘,叔孫通曰:「上可試觀。」上既觀,使行禮,曰:「吾能為此。」乃令群臣習肄,會十月。
漢七年,長樂宮成,諸侯群臣皆朝十月。儀:先平明,謁者治禮,引以次入殿門,廷中陳車騎步卒衛宮,設兵張旗志。傳言「趨」。殿下郎中俠陛,陛數百人。功臣列侯諸將軍軍吏以次陳西方,東鄉;文官丞相以下陳東方,西鄉。大行設九賓,臚傳。於是皇帝輦出房,百官執職傳警,引諸侯王以下至吏六百石以次奉賀。自諸侯王以下莫不振恐肅敬。至禮畢,復置法酒。諸侍坐殿上皆伏抑首,以尊卑次起上壽。觴九行,謁者言「罷酒」。御史執法舉不如儀者輒引去。竟朝置酒,無敢讙譁失禮者。於是高帝曰:「吾乃今日知為皇帝之貴也。」乃拜叔孫通為太常,賜金五百斤。

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