為政篇第二-5.孟懿子、孝を問う…

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現代語訳と原文・読み下し

門閥家老の孟懿子が、先生に孝とは何かと聞きました。先生がひとことだけ言いました。「外れないようになされ。」
家老の屋敷から帰る時、馬車の手綱を弟子の樊遅が執っていました。先生は彼に、こういうやりとりがあったよ、と話しました。
「どういう意味です?」と樊遅。「それはね、年上が生きている間は作法通りに仕え、亡くなったら作法通りにとむらい、供養するにも作法通りにすることだよ。」


孟懿子問孝。子曰。無違。樊遲御。子告之曰。孟孫問孝於我。我對曰無違。樊遲曰。何謂也。子曰。生事之以禮。死葬之以禮。祭之以禮。

モウ懿子イシ、孝を問ふ。子曰く。たがふこと無かれ。樊遅ハンチたづなびとたり。子これに告げて曰く。孟孫、孝を我問ふ。我こたへて曰く、違ふこと無かれ、と。樊遲曰く。何のいひ。子曰く。生きては之につかふるにうやののりを以てし、死しては之を葬るに禮を以てし、之を祭るに禮を以てす。

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語釈

孟懿子

魯国の三大門閥家老・三桓の一家、孟氏(孟孫氏)の当主。次章の孟武伯はその子。

孟孫氏は、魯国公15代桓公の長男で、武人としてまた傍若無人な振る舞いで知られた慶父ケイホを初代とし、以降一族が叔孫氏・季孫氏と共に三桓と呼ばれ、魯国公をしのいで政権を握った。代々司空(治水・土木長官。労働者となる罪人の管理を兼任)を務め、成城を根拠地とした。

三桓とその根拠地

三桓とその根拠地

孟懿子の弟、南宮敬叔は、孔子の洛邑留学に同行し、帰国ののち魯国都城・曲阜キョクフでの火事場働きが記録にある(『左伝』哀公三年・BC492)。

解説

今回、伝統的な読み下しと解釈に異議はありません。
為政第二-5_1_010

孔子と孟氏

孟懿子は、当時権勢を誇った門閥家老三家のうち、孟(孫)氏の当主です。三家を三桓サンカンと言い、の殿様の分家。一番勢力があったのが季(孫)氏、次いでシュク(孫)氏と孟氏でした。殿様の権力を強め、整然とした秩序を確立したい孔子にとって、三桓は潜在的な政敵です。

孔子は君主権向上のため、家老職にあったとき三桓の根城を破壊しようとしています。

ただ孟氏との関係は悪くありませんでした。孟懿子の父・孟子は今はの際に、「孔子先生に弟子入りしなさい」と遺言した、とされます。まだ無名だった孔子の学才を知って、何度か対面していたのでしょう。そこで孟懿子は弟の南宮敬叔と共に、孔子から学んだと言います。

つまり孔子と孟懿子は師弟だったわけです。中国でも伝統的に、師匠を重んじます。親や主君同様の礼を尽くすべき対象でした。これを「拝師礼」と言って丁寧にお辞儀し、入門時にはお礼にガンを差し上げます*。孔子死去の際も、多くの弟子が親同様、3年の喪に服しています。

一方で身分としては、孟氏は代々治水と司法を司りましたから、孟懿子は孔子の上司だったはずです。おそらく孔子の仕官も、孟懿子の推挙からでしょう。ただし孔子が失脚した原因の、三桓の根城破壊失敗、その黒幕でもありました。弟子でも政治は別、ということでしょう。

今回一言しか言わず帰った所に、両者のなんとなく微妙な関係が感じられます。
為政第二-5_2_001

樊遅という弟子

樊遅は孔子より約40年下の若い弟子。トンチンカンな質問をして、孔子を苦笑させました。
「先生! どうやったらお米がたくさん獲れるんでしょう!」
「知らんよワシは。お百姓さんに聞きなさい」(『論語』子路4)

そんな樊遅を孔子はかわいがり、今回のように馬車を任せたり、散歩に付き合わせたりと連れ歩きました。「おバカさんだなあ」と孔子は樊遅を評しましたが「教師はほどほど出来の悪い生徒を可愛がる」と世に言います。加えて樊遅はただのおバカではありませんでした。

隣の大国、セイの軍が攻め寄せた時、樊遅は兄弟弟子の冉有ゼンユウと共に部将として出陣しました。「もうおしまいじゃあ」と泣く者が出る中、二人は果敢に戦って、斉軍を追い払っています。冉有は撃退後、家老に「どこでその武技や兵法を習ったのじゃ?」と聞かれています。

「孔子先生に教わりました」と答えていますから、孔子は学問だけでなく、道場で稽古も付けていたことが、ここから分かります。戦場から冉有が帰ってきた時、「よくやった!」と孔子は褒めていますが、残念ながら史料に、樊遅をどう言ったかは書いてありません。

孔子がひとことしか答えなかったわけ

さて今回の話、孔子は何歳ぐらいでしょう? 奉行職時代は、樊遅はまだ子供です。だから孔子が放浪の旅から帰った68歳から、孟懿子が死去する71歳までの3年間でしょう。樊遅は30代後半。この間、孔子に不幸がありました。息子のに先立たれたのです。

もしその後なら、さすがに哀れんだ孟懿子に呼ばれ、「気の毒に。親子関係とはどうあるべきだったんだろうね」と問われたのかも。「愚息は、作法通りにやり遂げました」と孔子が言葉少なに答える風景が想像できます。そうでなくとも、先生・孟懿子共に最晩年です。

お互いの親子関係について回想したのかも知れません。互いにかつては師弟で、官界では助け合い、その後政界ではついに対立に至った、花も嵐も乗り越えた老人二人が、とつとつと過去を語り合う。孔子が答えを一言で済ませたけしきは、存外、いいものだったかも知れません。

付記

伝統的解釈

大夫の孟懿子が孝の道を先師にたずねた。すると先師はこたえられた。はずれないようになさるがよろしいかと存じます。そのあと、樊遅が先師の車の御者をつとめていた時、先師が彼にいわれた。孟孫が孝の道を私にたずねたので、私はただ、はずれないようになさるがいい、とこたえておいたよ。樊遅がたずねた。それはどういう意味でございましょう。先師がこたえられた。親の存命中は礼をもって仕え、その死後は礼をもって葬り、礼をもって祭る。つまり、礼にはずれないという意味だ。

斉軍を迎え撃つ冉有と、家老の御曹司・季康子キコウシ(再生時間34秒)。

*拝師礼:孔子は老子に雁を贈り、自身は弟子からビーフジャーキーの束(束脩ソクシュウ)を受け取っています。しかし時代が下るとどんどん複雑になり、それぞれ曰く付きの六種の贈り物が必要とされました。
以下、訳者のメモです。
『孔子家語』正論解
齊國書伐魯,季康子使冉求率左師禦之,樊遲為右。「非不能也,不信乎。請三刻而踰之。」如之,眾從之。師入齊軍。「齊軍遁。」冉有用戈,故能入焉。孔子聞之,曰:「義也。」既戰,季孫謂冉有曰:「子之於戰,學之乎?性達之乎?」對曰:「學之。」季孫曰:「從事孔子,惡乎學?」冉有曰:「即學之孔子也。夫孔子者大聖,無不該,文武竝用兼通。求也適聞其戰法,猶未之詳也。」季孫悅。樊遲以告孔子,孔子曰:「季孫於是乎可謂悅人之有能矣。」
『春秋左傳』哀公十一年
十一年,春,齊為鄎故,國書,高無平,帥師伐我,及清,季孫謂其宰冉求,曰,齊師在清,必魯故也,若之何,求曰,一子守,二子從,公禦諸竟,季孫曰,不能,求曰,居封疆之間,季孫告二子,二子不可,求曰,若不可,則君無出,一子帥師,背城而戰,不屬者,非魯人也,魯之群室,眾於齊之兵車,一室敵車,優矣,子何患焉,二子之不欲戰也,宜政在季氏,當子之身,齊人伐魯,而不能戰,子之恥也,大不列於諸侯矣,季孫使從於朝,俟於黨氏之溝,武叔呼而問戰焉,對曰,君子有遠慮,小人何知,懿子強問之,對曰,小人慮材而言,量力而共者也,武叔曰,是謂我不成丈夫也,退而蒐乘,孟孺子洩帥右師,顏羽御,邴洩為右,冉求帥左師,管周父御,樊遲為右,季孫曰,須也弱,有子曰,就用命焉,季孫之甲七千,冉有以武城人三百,為己徒卒,老幼守宮,次于雩門之外,五日,右師從之,公叔務人見保者而泣曰,事充政重,上不能謀,士不能死,何以治民,吾既言之矣,敢不勉乎,師及齊師戰于郊,齊師自稷曲,師不踰溝,樊遲曰,非不能也,不信子也,請三刻而踰之,如之,眾從之,師入齊軍,右師奔,齊人從之,陳瓘,陳莊,涉泗,孟之側後入,以為殿,抽矢策其馬曰,馬不進也,林不狃之伍曰,走乎,不狃曰,誰不如,曰,然則止乎,不狃曰,惡賢,徐步而死,師獲甲首八十,齊人不能師,宵諜曰,齊人遁,冉有請從之,三季孫弗許,孟孺子語人曰,我不如顏羽,而賢於邴洩,子羽銳敏,我不欲戰而能默,洩曰,驅之,公為與其嬖僮汪錡乘,皆死皆殯,孔子曰,能執干戈以衛社稷,可無殤也,冉有用矛於齊師,故能入其軍,孔子曰,義也。
『史記』孔子世家
孔子年十七,魯大夫孟釐子病且死,誡其嗣懿子曰:「孔丘,聖人之後,滅於宋。其祖弗父何始有宋而嗣讓厲公。及正考父佐戴、武、宣公,三命茲益恭,故鼎銘云:『一命而僂,再命而傴,三命而俯,循墻而走,亦莫敢余侮。饘於是,粥於是,以餬余口。』其恭如是。吾聞聖人之後,雖不當世,必有達者。今孔丘年少好禮,其達者歟?吾即沒,若必師之。」及釐子卒,懿子與魯人南宮敬叔往學禮焉。是歲,季武子卒,平子代立。

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