為政篇第二-10.その以ってする所を視…

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現代語訳と原文・読み下し

先生が言いました。「その人が何をするのか真っ直ぐに見、どのようにやるのか一連の手段を知り、どうしたいのか目的をはっきりと見れば、その人柄は隠しようがない。隠しようがない。」


子曰。視其所以、觀其所由、察其所安、人焉廋哉、人焉廋哉。

子曰く。の以てする所を、其のる所を、其の安んずる所をば、人いづくんかくさん、人焉ぞ廋さん哉。

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語釈

「示」(祭壇)+「見」だが、藤堂説では「示」は「まっすぐ」を意味する音で、全体として、まっすぐに見ること。白川説ではお告げを聞くように、慎重に見極めること。

觀(観)

藤堂説では、偏は「艹」+「口・口」+「隹」。口を揃えて鳴く水鳥。これに「見」を添えて、ものをそろえて見わたすこと。白川説ではとり占いを見るように、対象を見ること。

「宀」+「祭」。藤堂説では、「祭」は供え物の肉+手+水の垂れるさまで、供え物をよく清めること。うかんむりを付した全体で、家全体をよく清めること、そのように曇り無く目を利かすこと。白川説ではおやしろで祭りを行って神意を伺うこと。

「宀」+「女」。藤堂説では、うかんむりは屋根。その下に女性を置いて保護すること。押さえつけることをも意味する。

廋(ソウ)

白川説では、おきなが社殿で火を灯して神を探し、また神がそれから隠れる姿。
藤堂説では、人目につかないよう隠すこと。

解説

今回、伝統的解釈に大きな異議はありません。

孔子の繰り言か?

本章の言っていることはまことにごもっともで、それだけに面白くありませんが、論語をできるだけ面白く読もうとするのが、訳者の立場です。無論荒唐無稽な想像をしようとは思いませんから、本章にも妄想にならない程度の想像を加えて、解釈することにします。

解釈の方向は二通り考えられます。「隠しようがない…ない」と繰り返していることから、孔子は首を振り振り嘆いたとする解釈です。論語にはそのような、孔子個人の感情を吐露する言葉がいくつかあります。革命的理想家であるからには、避けられない世への嘆きです。
その以ってする所を視…1

これは巧言令色を嫌ったのと同じく、当時の世がまことに人が悪く見えたことへの繰り言でしょう。為政篇13で「言ったことはやれ」と教えている孔子は、「言ってもやらない」既存の君子=貴族たちに、自分ごととして愛想を尽かしていたのだと想像できます。

実際孔子は何度も、仕官の内定を取り付けては反故にされています。腕利きの行政家を雇うつもりが革命家だったという、当時の殿様連には当然の恐怖からではありますが、やっと仕官できるかと思えば無かったことにされたつらさは、孔子にとって他人事ではなかったのでした。

若者への励ましか?

もう一つは、若い弟子を明るく励ます教えだとする解釈です。経験の浅い若者にとって、人の心がわからないと嘆くのは、ありがちな青春の悩みです。となると、いわゆる「人の本当の性格を見抜く法」は彼らにとって、興味津々と思われます。だからメモに残したのです。

「誰それのココロが…」と悩む若者に、「なあに簡単じゃよ。あれとそれとこれを、よ~く観察してご覧。全部丸わかり、丸わかりじゃよ?」と励ました孔子。なるほどと思った弟子が、聞いておしまいにしてはならないと思いメモに残し、弟子仲間で回覧し、評判になった。

だから論語に載って今日まで残ったと想像する、そう解釈する方が、楽しくはあります。なお藤堂先生は本章を、以下のように読み下し・訳しています。

その人が用いる方法を見つめ、その人が通ってきたすじ道をを見渡し、その人が何に腰を落ち着けているかを身きわめれば、どうしてその正体をかくすことができようぞ。かくしだてできるはずがない!


そのもちいるもの、その由るところ、その安んずる所を察すれば、人いずくんぞかくさんや、人焉んぞ廋さんや!

「以」を動詞として読み、その人の「手段・経緯・目的」と解釈するわけです。訳者の「行動・手段・目的」とは異なりますが、大きな意味の違いは無いと思います。

付記

伝統的解釈

先師がいわれた。人間のねうちというものは、その人が何をするのか、何のためにそれをするのか、そしてどのへんにその人の気持の落ちつきどころがあるのか、そういうことを観察してみると、よくわかるものだ。人間は自分をごまかそうとしてもごまかせるものではない。決してごまかせるものではない。

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