為政篇第二-12.君子は器ならず。

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現代語訳と原文・読み下し

先生が言いました。「諸君は他人の飼い犬になって一生を終えるな。」


子曰。君子不器。

子曰く。君子はうつわなられ。

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語釈

白川説では、いけにえにされた犬と、そのまわりに四つ並べられた祝詞の容れ物だという。祭礼では青銅器にいけにえの血を塗り、「血塗る」の語源となった。

藤堂説ではさまざまな容れ物で、それぞれ決まった形があり特定の用途にしか向かないことのたとえ。犬は種類が多いことを示すという。

為政篇第二-12

圉卣(ぎょゆう) 西周前期 首都博物館 Photo by S. M. Lee via https://ja.wikipedia.org

解説

伝統的解釈に、大きな異議はありません。

「器」とは何か

この一節、短いだけに解釈が多様で議論を呼んできましたが、「君子は道具ではない」と解するのはおおむねの賛成を得ています。どのような道具か、で議論が分かれますが、道具以外に「才能」の意味も、論語当時からありました。教育勅語の「徳”器”」はその意味です。

…學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ德器󠄁ヲ成就シ進󠄁テ公󠄁益󠄁ヲ廣メ…
(学問を修得し、技術を習得し、それによって知能を発達させ、人格と才能を完成させ、それを土台に公共の利益を増大させ…)

1890年(明治23年)教育ニ関スル勅語 抜粋

その「器ではない」と説く本章を、藤堂先生はこう訳しています。

すぐれた人物は、決まった事にだけ向くうつわのようには、型にはまらないものだ。

「諸君は自由であれ」という教えでしょうか。一方宮崎先生はこう訳します。

諸君は器械になって貰っては困る。

対してこの新釈では単なる道具と取り、「誰かの道具ではない」と解釈しました。

孔子が人格の自立を説いたのは明白だからです。加えて諸国に広まっていく弟子たちに、理想実現のための働きをして貰いたいならば、弟子たちは雇われに行くというより、むしろ雇われ先を変えるために出かけていくわけで、それゆえに道具になって貰っては困るはずです。

伝統的解釈のように、「血の通った、情のわかる人間たれ」との解釈は文法的におかしくはありませんが、これは孔子没後のはるかあと、儒家が法家と対立するようになった事情が影響してからのことと思います。孔子自身法曹としては、厳しく法を適用した過去があるからです。

それを反省しての発言と解釈も出来ますが、法の執行を情実で曲げるようでは、諸国に散るべき弟子の出世が望めません。それでは孔子の理想実現は困難になります。従ってこの章のもとの意味は、あくまでも革命の闘士となるべき弟子への教訓と理解するのがよいと思います。

やはり孔子の「革命党宣言」

無論、政治とは無関係の一庶民が、こんにちの立場でこの章を読むとき、「血の通った人間たれ」との教訓として受け取るのもいいでしょう。しかしその解釈を孔子自身にさかのぼらせるのは誤りですし、生きた孔子をここでも、死んだ石ぼとけにしてしまうことになります。

当時の時代背景を考えると、学問を通じて身分制度を乗り越えようとする孔子の立場は過激ですし、同時に秩序立った社会を復興させようとする、孔子の矛盾にも気付きます。人間とは矛盾のあるものであり、それがこの二律背反の上に危うく乗っている孔子の魅力でもあります。

その危うさは、この章そのものです。弟子たちは一面、孔子にとって理想実現のための「道具」でしたが、自分は諸君をそうは見ない。自覚的に「才能」を用いて、私の言う理想を実現する同志になって欲しい。どうかね、諸君。それが孔子の言いたかったことでしょう。

付記

伝統的解釈

先師がいわれた。君子は機械的な人間であってはならぬ。

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