為政篇第二-14.君子はあまねくして…

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現代語訳と原文・読み下し

先生が言いました。「立派な人間は、疑ってかかることなく人と付き合うが、つるみはしない。つまらない人間は、つるみはしても、見知らぬ人を疑ってかかる。」


子曰。君子周而不比。小人比而不周。

子曰く。君子はあまねくししたし小人ショウジンは比み而周くせ不。

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語釈

原義は細かく文様の描かれたたてのこと。周王朝は西方から起こり、イン王朝を滅ぼした征服王朝で、攻め寄せる時に自分たちの持っていた盾を、言わば旗印にしたらしい。その文様が端から端まで行きめぐっていたので、「行き渡る」「めぐる」「回る」の意味となった。
為政篇第二-14

人が二人並んださま。ここから「並ぶ」「親しむ」「比べる」の意味となった。

解説

今回、伝統的解釈に特に異議はありませんが、解釈者の行動には疑念があります。

革命家とは孤独者である

当時における孔子一門は、身分が低い割には学問を身につけた、特異な集団でした。従って弟子たちは否応なく集団にならざるを得ず、孔子もまたそれに助けられました。しかし集団はこれまた否応なく、利権集団や派閥にならざるを得ず、それを孔子は危ぶんだのでした。

集団の歯車になるとは、「器」になってしまうことだからです。自我の確立を弟子に望んだ孔子にとって、望ましい姿ではありません。くわえて判断を集団にゆだねてしまっては、「温故」はできても「知新」は難しくなるでしょう。集団は革新を忌み嫌うからです。

そのために、付き合う人物を限らない「周」=幅広い自由なものの見方、を孔子は求めたのでした。新しい知識を前にして、手を出して非難されないかどうか、まわりを見「比」べるようでは、孔子の理想を実現する、革命闘士にはふさわしくないことになるでしょう。

人間としても自我を失い、ベタベタといつもの仲間だけでつるんでいる姿は、見ていて涼しげではありません。孔子と交流のあった同時代の賢者、子桑雽シソウコ*も、「君子の交わりは淡くて、水のようなもの、小人の交わりはべたべたと、甘酒そっくり」と言っています。

もしこの章での「君子」を、孔子が弟子に求めた革命闘士だとすると、かえって今日的意義を持つことになります。孔子の時代は鉄器が出現し、まさに革命的勢いで社会の生産が増大した時代でした。資源豊富な鉄が従来の希少な青銅器に代わり、土地を耕し始めたからです。

精錬の難しいはがねこそありませんが、クワの先に付けるだけなら鋳鉄でも用は足ります。だからこそ諸侯が周王から自立し、諸侯から三桓のような貴族が自立できたのです。このけしきは現在の、ネットによって社会がまるで変わっていくに似た激動期だったのです。

そのような先行き不明の時代、旧勢力は利権を守ろう、新勢力は奪おうと、激しい争いが起こるのは理の当然です。当然、人間不信がはびこりますが、何事も疑ってかかっては自分を変えられず、争いの餌食になるだけです。新奇を疑いはするが、始めから排除してはいけない。

孔子がそこまで見通していた、と解釈することもまた可能なのです。

試験でのし上がった儒者集団

では自称孔子先生の弟子、後世の儒者はどんな付き合いをしていたでしょうか。

古代、政争とは君主と貴族の争いでした。君臨すれども君主は多勢に無勢、貴族集団に負けて国が滅びました。そこで中世、ズイの文帝が庶民を味方に付けようと、高級官僚試験=科挙を始めました。試験で選んだ人材を子飼いの官僚にし、貴族の対抗勢力を作ろうとしたのです。

そのもくろみは当たりましたが、儒者にとっても朗報でした。彼らは何より、試験勉強に長けていたからです。それゆえに、科挙に応じる者は儒者が多く、当初の科挙にあった多様な試験科目も、やがて儒教経典だけに限られていきました。儒者は貴族をおびやかし始めたのです。

やがて宋の時代に、儒者が政界のみならず、学界・言論界を独占し、互いに派閥を作って争うようになると、彼らは今回の孔子の言葉に苦しむようになります。そこで自分たちの党派は君子党=正義の集団であって、論語とは矛盾しないという論理を生み出します。

言論界を独占していますから、これに異を唱える者はいませんでした。せいぜい、敵対派閥に小人党のレッテルを貼る程度です。加えて試験を通じて自力でのし上がった自負から、皇帝さえも自分たちに従え、と胸を張るようになります。自然、論語の解釈も影響を受けました。

伝統的解釈には、その風味が加わっていることを記憶しておいていいでしょう。

付記

伝統的解釈

先師がいわれた。君子の交りは普遍的であって派閥を作らない。小人の交りは派閥を作って普遍的でない。

*子桑雽=子桑伯子。傅佩榮主編『孔子辭典』(聯經出版公司、2013年)p.60。『論語』雍也2に言及あり。『荘子』中の、孔子塾生の子舆と友人だった子桑とは別人。秦国公室の末裔に子桑氏を名乗る集団があり、その一人の可能性がある。

以下、訳者のメモです。
『莊子』外篇・山木
孔子問子桑雽曰:「吾再逐於魯,伐樹於宋,削跡於衛,窮於商、周,圍於陳、蔡之間。吾犯此數患,親交益疏,徒友益散,何與?」
子桑雽曰:「子獨不聞假人之亡與?林回棄千金之璧,負赤子而趨。或曰:『為其布與?赤子之布寡矣。為其累與?赤子之累多矣。棄千金之璧,負赤子而趨,何也?』林回曰:『彼以利合,此以天屬也。』夫以利合者,迫窮禍患害相棄也;以天屬者,迫窮禍患害相收也。夫相收之與相棄亦遠矣。且君子之交淡若水,小人之交甘若醴;君子淡以親,小人甘以絕。彼無故以合者,則無故以離。」

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