為政篇第二-15.学びて思わざれば…

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現代語訳と原文・読み下し

先生が言いました。「勉強しても、その中身を自分事として考えないと、何も身に付かない。あれこれ考えても勉強しないと、でたらめになる。」


子曰。學而不思則罔。思而不學則殆。

子曰く。學び思はざらばすなはくらし。思ひ而學ばざらば則ちあやふし。

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語釈

最も古い字体は、もう。あみを広げたさま。これに音符としてもうを加えたのが罔。同音の亡に通じて、「無い」の意味が加わった。音符の亡は、目と組み合わせて盲の字が出来た。ここから、罔にも「暗い」の意味が付け加わった。
さらに「あみ」専門の字として、糸を加えて網が出来た。現代中国語では「あみ」を意味する簡体字として、一番古くて簡単な、ワンが選ばれている。

がつはバラバラになったガイコツ。それに音符として台が付き、意味は「近づく」。どうしてそうなったかは、漢字の専門家もさじを投げている。ただ、ガイコツに近づくのは危ない行為には違いないので、「危うい」の意味が出来た事情は容易に想像がつく。
為政篇第二-15

解説

伝統的解釈に、大きな異議はありません。ただし、話はもう少し具体的です。

本当は「まず思え」と言いたかった孔子

学習には実践が伴わなければならないと考えた孔子は、弟子に「これは自分にとってどうなのだろう」と考えるよう求めたはずです。いわゆる試験勉強ではなく、精神修養を含んだ全人格的学習に努めなければ、自立し有能な、望ましい官僚予備軍になれないからです。

同時に自立した自我を弟子に求めたゆえに、自立心を養う過程の危うさにも孔子は気付いており、独善に陥らないよう諭しました。官僚の独善は大勢の民を悩ませますし、それは古代とあっては一国の存亡にも関わるからです。この二つが、本章の説くところと思います。

本章を従来のように、一般的な人生訓と読めなくはないように、孔子の教えは人格修養を含みます。しかし弟子の多くは官職目当てに入塾したのですから、それは二の次でした。「勉強よりまず仁」と説いた孔子は、繰り返しその重要性を言わざるを得なかったのでしょう。

従って本来なら孔子は、「学ぶ前に思え」と言いたかったでしょう。高弟の中にも、まるで仁の実践が伴わない者が出てしまったからです。しかし弟子も多様だったはずで、今回のように塾内の一般論を説く場合、思索と学習のバランスを取るよう話したと思われます。

学びて思えとは

なお原文中の漢字「殆」には、他にも「疑う・恐れる・疲れる・崩れる・破れる・ほとんど・必ず・始め・怠る・治める・~と」の意味があります。英語もそうであるように、長い歴史のある言葉には、こうした多義性がつきものです。それが古典の難解性を産んでいます。

従って漢文を理解するには、どのような背景での言葉なのか、関連情報を知っている必要があります。論語で言えば時代背景や、孔子の立場や理念などです。それ無しに論語を読もうとしても、自動翻訳のように具体性に欠ける、まことに干からびたつまらぬ本でしかありません。

本章の「学ぶ」も何を学ぶのか、「思う」も何を思うのか、それは関連情報あってやっとわかります。自分で読もうとする意志がないとわからないのです。本を読むにもそうした主体性を持て。孔子の言う「学びて思う」とは、そのような主体的自己を持つための教訓なのです。

付記

伝統的解釈

先師がいわれた。他に学ぶだけで自分で考えなければ、真理の光は見えない。自分で考えるだけで他に学ばなければ独断におちいる危険がある。

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