為政篇第二-16.異端を攻めるは…

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現代語訳と原文・読み下し

先生が言いました。「他人の正義に文句を付けてもね、悪い結果しか起きない。」


子曰。攻乎異端、斯害也已。

子曰く。ことひとこころだのみめるこれそこなひのみ

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語釈

工+ボクの組み合わせで、文字通りボクッと叩いて、工具で何かを作ること。工具が武器なら攻撃の意味となる。のち、学ぶを意味するようになった。

端正に揃った布、または社殿で巫女みこが正しく位置する場所。従って「ただしい」が元々の意味。巫女の位置する場所は社殿の上席であることから、「はじまり・はしっこ」の意味に転用された。
為政篇第二-16

解説

伝統的解釈には無理があります。

「異端を攻める」の解釈

論語の中に出てくる「攻」は全部で三カ所、他の二カ所では「攻める」と伝統的にも解釈してきました。同じ漢字は必ずしも同じ意味で解釈する必要はありませんが、特異な解釈をするなら、それ相当の根拠が必要です。同時に原義で読めるなら、それに従うべきでもあります。

論語は現存の書物の中でも、最も古いと言ってよいからです。従って「攻」はまさに「攻める」こと、「異端」とは、宗教裁判の被告のようなものではなく、「異なった正しさ」=「他人の正義」と解すべきです。それを避けることは孔子にとって、現実的意味がありました。

孔子一門がすでに、社会の異端者だったからです。故国の魯でこそ、政治家として個人の失脚はしても、一門の排斥運動までには至りませんでしたが、放浪中にはもろともに迫害され、根絶やしに遭いかけたことがありました。従って、要らぬ敵を作る余裕は無かったのです。

従ってこの章はむしろ、塾内でのつまらぬケンカを止めるため、孔子が諭した言葉と解せます。そんなことをしている暇があったら、座学に稽古に、また精神修養に努めて欲しいというのが、孔子の弟子に対する望みでしょう。その結果が、結束の堅さとなって現れたのでした。
為政篇第二-16

孔子は弟子に逃げられた?

もし異端の学問なるものがあったとしても、過去の賢者がたいていは、弟子の一人や二人に逃げられたエピソードを持ちますが、孔子にはそうした史実がありません。職目当ての弟子が多かったからには、そうした節操を持ち合わせない者が居てもよさそうに思えるのにです。

この点孔子より約600年後の『論衡』に、孔子の政敵・少正卯についての記述があります。


少正卯は魯国で孔子と並んで名高く、孔子塾は三たび盛ち三たび空になるありさまだったが、顏淵だけは孔子の下を去らなかった。顏淵だけが孔子の聖人*であることを知っていたからである。そもそも弟子が孔子の下を去って少正卯についたのは、孔子の聖人たるを知らなかっただけでなく、少正卯の人となりも知らなかったから、みな迷ったのだ。子貢は言った。「そもそも少正卯は魯に名高い人です。先生は政治に当たって、なぜ従わないのですか?」孔子は言った。「賜(=子貢)よ退がれ! お前の知ったことではない!」子貢ほどもともと才能や世故に長けた者でさえ、聖人のなんたるかは分からなかった。(現在)世間の学者が聖人を見て、この人は聖人だと私には分かると言うのは、妄想である。


ここから、孔子すら弟子に逃げられるほどの学派を少正卯が立てていた、とする論もありますが、ずいぶん後世の論説ですし、顔回の神聖化も甚だしいですから、史実ではないでしょう。

「宗教裁判」と化した事情

なお本章を宗教裁判の如く解釈したのは、孔子より約700年後の儒者です。当時の儒学界は党派抗争が激しく、彼らは同時に政治家でもあったことから、政治闘争にまで拡大しました。当然、投獄や処刑がつきものです。本章は間違いなく、彼らのお墨付きになったはずです。

事情はその後の中国も変わりません。また朱子学を受け入れた江戸期の日本も、松平定信による寛政異学の禁のように、本章が悪用されました。しかしもとより仁を説いた孔子は、そうした思想信条ゆえの殺戮とは無関係ですし、他学派を攻撃する動機も環境も持ちませんでした。

ここで当時の孔子一門の社会的地位を考えると、当時の学問の党派で、孔子一門と拮抗するような勢力は、現在確認できません。むろん教師はいくらもいたでしょうが、それら他門下で師について学ぶことを、「温故知新」を説いた孔子は止めなかったと思われます。

そのような学派があったなら、儒者たちは本章を異端排斥として解釈する証拠として、上記のように大事にとって置くはずです。彼らは記録の改編や捏造さえ、平気で行う人々だったからです。しかし史実として少正卯は孔子の政敵に過ぎず、その手で処刑されてしまいました。

司馬遷が『史記』の中で「孔子世家」を立て、孔子を諸侯と同格に扱ったのも、儒教の国教化という当時の地位だけでなく、孔子の同時代に異端を唱え得るような学派がなかったからでした。この点から孔子は自分の教説に自信を持ち、異端排斥を唱える必要はありませんでした。

付記

若き友人によると、彼の読んだドイツ語訳論語では、「攻」を「せめる」と解釈していたと言います。儒教道徳から自由なドイツ人には、ありのままに読めたようです。

伝統的解釈

先師がいわれた。異端の学問をしても害だけしかない。

*「聖人」とはキリスト教のセイントのような神聖人ではなく、藤堂説では「聖」は「知」(矢のように真っ直ぐ本質を知ること)の語尾がŋに転じた言葉で、もと耳も口も正しく、ものごとを当てる知恵者のこと。また「是」(シ・ゼ)とも縁が近い。

以下、訳者のメモです。
『論語注疏』為政16
攻,治也。善道有統,故殊塗而同歸。異端不同歸也。
【疏】「子曰:攻乎異端,斯害也巳」。○正義曰:此章禁人雜學。攻,治也。異端,謂諸子百家之書也。言人若不學正經善道,而治乎異端之書,斯則為害之深也。以其善道有統,故殊塗而同歸。異端則不同歸也。○注「攻治」至「同歸」。○正義曰:云:「善道有統,故殊塗而同歸」者,正經是善道也,皆以忠孝仁義為本,是有統也。四術為教,是殊塗也,皆以去邪歸正,是同歸也。異端之書,則或粃糠堯、舜,戕毀仁義,是不同歸也。殊塗同歸,是《易下繫辭》文也。
『孟子』梁惠王章句上4
梁惠王曰:「寡人願安承教。」
孟子對曰:「殺人以梃與刃,有以異乎?」
曰:「無以異也。」
「以刃與政,有以異乎?」
曰:「無以異也。」
曰:「庖有肥肉,廐有肥馬,民有飢色,野有餓莩,此率獸而食人也。獸相食,且人惡之。為民父母,行政不免於率獸而食人。惡在其為民父母也?仲尼曰:『始作俑者,其無後乎!』為其象人而用之也。如之何其使斯民飢而死也?」
『論衡』講瑞5
少正卯在魯,與孔子並。孔子之門三盈三虛,唯顏淵不去,顏淵獨知孔子聖也。夫門人去孔子歸少正卯,不徒不能知孔子之聖,又不能知少正卯,門人皆惑。子貢曰:「夫少正卯、魯之聞人也,子為政,何以先之?」孔子曰:「賜退!非爾所及!」夫才能知佞若子貢,尚不能知聖,世儒見聖,自謂能知之,妄也。

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