為政篇第二-17.由や、なんじにこれを知るを…

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現代語訳と原文・読み下し

先生が言いました。「由くんや、君に知っているとは何かを教えてあげようか。知っていることを知っているとし、知らないことを知らないとする。それが知ると言うことだよ。」


子曰。由。誨女知之乎。知之爲知之、不知爲不知。是知也。

子曰く。ゆうや、なんぢこれを知るををしへ。之を知るを之を知るとし、知らるを知らと爲す。これ知る也。

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語釈

為政篇第二-17

つくりの「カイ」は暗いことを意味し、言葉でその暗さを取り去る行為を言う。「海」(黒い水)、「悔」(暗くふさぎ込む心)、晦(陰暦月末の月のように暗くわかりづらい)と同系の言葉。

解説

伝統的解釈に異議はありません。

徳=隠然たる力

本章の由とは、姓は仲、あざなの子路・季路で知られる弟子の最年長です。しかし学問の出来は今一つだったので、後輩にたびたびハッタリをかましていたのでしょう。「おしえん」とため息をつくように孔子が言っていることから、そのけしきが想像できます。

子路は武芸自慢で、一本気な性格でした。孔子との初対面では武装して押しかけていますが、それは孔子を威圧しようとしたのでしょう。それがすっかり敬服して弟子になってしまった理由は、大男だったと言われる孔子の体格と、学識だけに参ったのでは無いと想像します。

孔子自身が、武術の達人だったからです。「では庭に出なさい」と言われさんざん打ち負かされたと想像したい誘惑に駆られますが、「刑ではなく徳」で人を従えようとした孔子ですから、物理的に手を出さずとも、かもし出される威圧感で子路は参ってしまったのでしょう。

こういうことは歴史にたびたびあって、日本史でも坂本龍馬と勝海舟との出会いがよく似ているそうです。それはともかく本章にも、作り事を嫌う孔子の性格は一貫しています。知ったかぶりもまた、作り事だからです。これは孔子の作法や祭礼の重視と矛盾するように見えます。

しかしそれら「礼」もまた、孔子にとって実用的な意味がありました。しかし当時、世間や時には弟子までも、孔子のこの一貫性は理解されませんでした。子貢が問うたように、乱世では軍事力と経済力といった目に見える力こそものを言ったからです。

しかし子路が参ってしまったように、孔子は隠然たる力=徳の効果を知っていました。しかし徳には力の裏付けが必要なように、知にも実際知っているという裏付けがなければ、作り事のハッタリです。それゆえ「やれやれ」と孔子はため息をつきつつ、教えさとしたのでした。

子路という弟子

子路はすぐれた弟子の一員に数えられはしませんでしたが、孔子の隠然たる力に感じただけあって、徳=人格的迫力を身につけたようで、後に政治手腕を師を賞賛されるまでなりました。しかも終生その率直さを失わず、顔回と並んで最愛の弟子と言っていいでしょう。

「どこへでもついてきてくれるのは、お前だけだろうね」と孔子は子路に語りかけましたし(公冶長7)、事実放浪の旅にも同行し、子貢と同じ世話役として一行を守りました。物語的論語解釈ではおバカとして描かれがちなのも、愛すべき人物ならではのことでしょう。

論語の中に最も多く登場する弟子もまた、子路です。学業を終えてからは地元魯国の家老につかえ、孔子の企てた三桓の根城破壊にも従事しています。やがて隣国の衛に仕えましたが、その率直さゆえに、政争に巻き込まれて殺され、晩年の孔子に大きな打撃となりました。

子路は見せしめに、塩漬けにされたと言います。中国には人肉食の習慣があったからですが、その時孔子は72歳、悲嘆から家中の塩漬けを捨てたと言います。それは今一人の最愛の弟子・顔回を亡くした翌年でもありました。孔子も後を追うように、翌年亡くなっています。

付記

伝統的解釈

先師がいわれた。由よ、お前に『知る』ということはどういうことか、教えてあげよう。知っていることは知っている、知らないことは知らないとして、素直な態度になる。それが知るということになるのだ。

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