為政篇第二-18.子張、禄をもとむるを…

スポンサーリンク

現代語訳と原文・読み下し

兄弟子の張先生が、一生懸命にマニュアル本を読んで就職活動をしていました。それを見て孔子先生が言いました。
「人の話をよく聞いて、疑わしい話は真に受けず、残ったまじめな話を慎重に選んで話せば、文句を言われずに済む。世の中をよく見て、怪しいものは見なかったことにし、残ったまともなものを慎重に選んで行えば、後で後悔しなくなる。話に文句も言われず行動に後悔もしないなら、就職活動はきっとうまくいく。」


子張學干祿。子曰。多聞闕疑、愼言其餘、則寡尤。多見闕殆、愼行其餘、則寡悔。言寡尤、行寡悔、祿在其中矣。
子張シチョウ祿つかさもとむるを學ぶ。子曰く。多く聞きて疑はしきをき、つつしみてあまりを言はば、すなはわざわひすくなし。多く見てあやふきを闕き、愼みて其の餘りを行はば、則ちくい寡し。ことのはに尤寡く、行いに悔寡からば、祿其の中に在りなん

スポンサーリンク

語釈

祿(禄)

古くは彔と書き、キリで穴を開ける様子をかたどった字。原義は「天の恵み」。転用されて「給与」「官職」。

武具のさすまた、転じて長方形の盾。丸い盾は単と言う。武具であることから、「戦う」「強要する」へと意味が転じた。

ケツ

宮門の飾り柱ですが、欠と音が通じることから、同じ意味へと転用された。

ユウ

呪力のある、まがまがしいけもの。

老いた未亡人。人徳が少ないゆえの結果と見て、「少ない」の意味に転用された。諸侯も自称として「寡人」を用いた。

解説

伝統的解釈に異議はありません。一説に、本章は「見ざる・言わざる・聞かざる」の出典とも言われます。

子張という弟子

子張に冠せられた子という漢字は、単なる子供一般ではなく、もとは王子を意味しました。やがて意味が拡大されて、男性貴族を指すようになり、「先生」の意味も付け加わりました。その子張は孔子より約50歳若い弟子。本名は顓孫せんそん。古代にはよくある二文字の家名です。

孔子からは「師」、弟子仲間からは「張」と呼ばれました。本名で呼ぶのは呼び捨てにあたり、親や先生や仕えるあるじに限られます。同輩からの呼び名としては、「あざな」が使われます。その子張は没落貴族または商家の出とも言われますがよく分かりません。

中国では、ずっと名家でいつづけるのは困難でした。王朝が滅ぶと皇帝一族は皆殺し、世の中が荒れると、群れた庶民の手で貴族も金持ちも皆殺しだからです。さらに当時は乱世ですからなおさらで、ずっと名家として残ったのは、それこそ孔子の家系に限られます。

子張は孔子没後自ら弟子を取り、文学青年の子夏と交遊し、互いに弟子を教えあったようです。後世、張先生と尊称され、論語にも子路・子貢に次いで論語に記述があるのは、残った彼の派閥が有力だったからでしょう。有若を後継者に据えようとした一人でもあります。

それだけに人柄については、若年塾生代表格の曾参に「どうも彼は、仁が分かっていない」と言われ、先生にも「見た目は立派なんだがなあ…。」と嘆かれていました。それゆえか、就職活動はうまくいかなかったらしく、子張の就職話や、官界での活躍話は見つかりません*。

子張の危うさ

加えて本章のけしきについては別の記録があり、孔子はこう答えています。


「うーむ、危ないんだよなあ役所勤めは。」「なんでです?」「それはねえ、クドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクド…。」
為政第二-18_3_062
…子張はうんざりして、とりあえず先生のお説教をメモしました。


ここから本章は、子張の人格を見た孔子が、その危うさを教え諭そうとした言葉と思われます。古代ですから官界は、定年まで勤めて天下りというわけにはいかず、子路のように、政変があれば殺されてしまいました。従って孔子は、むしろ学者への道を勧めたと想像できます。

おそらく政治の才も無かったと思われます。孔子一門の放浪中、魯国が大国の斉に攻めかけられた際のこと。


「故国に危機が迫っている…誰か停戦交渉に行ってきなさい!」と孔子。子路が進み出ましたが孔子は止めました。子張が手を挙げましたが許しませんでした。「では私が」と子貢が言い、諸国を駆け回って大弁舌を振るい、その結果戦争は未然に終わりました。


かように政治や弁舌の才能は無かったようですが、人の向き不向きは様々です。官職に就きたいからと言って、「すまじきものは宮仕え」なのは古代中国も変わりません。文学青年の子夏と仲がいいだけあって、孔子は学問の才を子張に見いだしたのでしょう。

付記

伝統的解釈

子張は求職の方法を知りたがっていた。先師はこれをさとしていわれた。なるだけ多く聞くがいい。そして、疑わしいことをさけて、用心深くたしかなことだけを言っておれば、非難されることが少ない。なるだけ多く見るがいい。そして、あぶないと思うことをさけて、自信のあることだけを用心深く実行しておれば、後悔することが少ない。非難されることが少なく、後悔することが少なければ、自然に就職の道はひらけてくるものだ。

*小倉芳彦訳・岩波文庫『春秋左氏伝』魯哀公八年の条に、「呉は魯を攻めようとして…叔孫輒(子張)にたずねると…。」以下の記述がありますが、これは本章の子張とは別人です。理由は以下の通り。

  1. 17歳の少年に呉王が遠征軍司令官を任せるとは思えないこと
  2. 本章の子張と本名が違うこと
  3. 本章の子張は史記によれば陳出身であり、公山不狃の言葉と合わないこと
  4. おそらく小倉先生は、左伝の「王將使我子張疾之」の句読を切り違えており、叔孫輒のあざなはそもそも子張ではないと思われること

です。

以下、訳者のメモです。
『孔子家語』入官
子張問入官於孔子。孔子曰:「安身取譽為難。」子張曰:「為之如何?」孔子曰:「己有善勿專,教不能勿怠,已過勿發,失言勿椅,不善勿遂,行事勿留。君子入官,自此六者,則身安譽至而政從矣。且夫忿數者,官獄所由生也;拒諫者,慮之所以塞也;慢易者,禮之所以失也;怠惰者,時之所以後也;奢侈者,財之所以不足也;專獨者,事之所以不成也。君子入官,除此六者,則身安譽至而政從矣。故君子南面臨官大域之中而公治之,精智而略行之,合是忠信,考是大倫,存是美惡,進是利而除是害,無求其報焉,而民之情可得也。夫臨之無抗民之惡,勝之無犯民之言,量之無佼民之辭,養之無擾於其時,愛之無寬於刑法。若此,則身安譽至而民得也。君子以臨官,所見則邇,故明不可蔽也;所求於邇,故不勞而得也;所以治者約,故不用眾而譽立;凡法象在內,故法不遠而源泉不竭。是以天下積而本不寡,短長得其量,人志治而不亂政,德貫乎心,藏乎志,刑乎色,發乎聲。若此,而身安譽至,民咸自治矣。是故臨官不治則亂,亂生則爭之者至,爭之至,又於亂。明君必寬祐以容其民,慈愛優柔之,而民自得矣。行者、政之始也;說者、情之導也。善政行易,則民不怨;言調說和,則民不變;法在身,則民象之;明在己,則民顯之。若乃供己而不節,則財利之生者微矣;貪以不得,則善政必簡矣;苟以亂之,則善言必不聽也;詳以納之,則規諫日至。言之善者,在所日聞;行之善者,在所能為。故君上者、民之儀也;有司執政者,民之表也;邇臣便僻者,群僕之倫也。故儀不正,則民失;表不端,則百姓亂;邇臣便僻,則群臣汙矣。是以人主不可不敬乎三倫。君子脩身反道,察里言而服之,則身安譽至,終始在焉。故夫女子必自擇絲麻,良工必自擇完材,賢君必自擇左右。勞於取人,佚於治事,君子欲譽,則必謹其左右。為上者、譬如緣木焉,務高而畏下玆甚。六馬之乖離,必於四達之交衢;萬民之叛道,必於君上之失政。上者尊嚴而危,民者卑賤而神。愛之則存,惡之則亡。長民者必明此之要。故南面臨官,貴而不驕,富而能供,有本而能圖末,脩事而能建業,久居而不滯,情近而暢乎遠,察一物而貫乎多,治一物而萬物不能亂者,以身本者也。君子莅民,不可以不知民之性而達諸民之情。既知其性,又習其情,然後民乃從命矣。故世舉則民親之,政均則民無怨。故君子莅民,不臨以高,不導以遠,不責民之所不為,不強民之所不能。以明王之功,不因其情,則民嚴而不迎;篤之以累年之業,不因其力,則民引而不從。若責民所不為,強民所不能,則民疾;疾則僻矣。古者聖主冕而前旒,所以蔽明也;紘紞充耳,所以揜聰也。水至清即無魚,人至察則無徒。枉而直之,使自得之;優而柔之,使自求之;揆而度之,使自索之。民有小過,必求其善,以赦其過;民有大罪,必原其故,以仁輔化。如有死罪,其使之生,則善也。是以上下親而不離;道化流而不蘊。故德者、政之始也。政不和,則民不從其教矣;不從教,則民不習;不習,則不可得而使也。君子欲言之見信也,莫善乎先虛其內;欲政之速行也,莫善乎以身先之;欲民之速服也,莫善乎以道御之。故雖服必強,自非忠信,則無可以取親於百姓者矣;內外不相應,則無可以取信於庶民者矣。此治民之至道矣,入官之大統矣。」子張既聞孔子斯言,遂退而記之。
五帝德
他日,宰我以語子貢,子貢以復孔子。子曰:「吾欲以顏狀取人也,則於滅明改之矣;吾欲以辭言取人也,則於宰我改之矣;吾欲以容貌取人也,則於子張改之矣。」宰我聞之懼,弗敢見焉。
『論語』子張
曾子曰:「堂堂乎張也,難與並為仁矣。」
『史記』仲尼弟子列傳
田常欲作亂於齊,憚高、國、鮑、晏,故移其兵欲以伐魯。孔子聞之,謂門弟子曰:「夫魯,墳墓所處,父母之國,國危如此,二三子何為莫出?」子路請出,孔子止之。子張、子石請行,孔子弗許。子貢請行,孔子許之。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする