為政篇第二-19.哀公問うていわく…

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現代語訳と原文・読み下し

若殿の哀公が問いました。「どうすれば民が言うことを聞くだろう?」

孔子先生が答えました。「まじめな役人を抜擢して悪役人どもの長官に据えれば、民は言うことを聞きます。ですが、まじめ役人たちの長官に悪役人を据えると、民は言うことを聞きません。」


哀公問曰。何爲則民服。孔子對曰。舉直錯諸枉、則民服。舉枉錯諸直、則民不服。

哀公アイコウ問ふて曰く。何を爲さばすなはち民したがはん。孔子こたへて曰く。ただしきをげてもろもろまがれるにまじはば、民服はん。枉るを舉げて諸直きに錯はば、則ち民服はず。

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語釈

元々の意味は「砥石」。そこから「磨く」になり、象眼細工のように「磨き出す」前に「混ぜる」に転用された。また古くはと同音であることから、「置く」、さらに差と音が似ているので、「離れる・間違う」。

解説

伝統的解釈に大きな異議はありません。

民が言うことを聞かないわけ

ただしわざわざ「民」と断っていますから、「まじめ」も「ワル」も役人です。また江戸の漢学者はサクを「上に置く」と解しましたが、挙=抜擢して「まぜる」と理解しても通じます。これを中国の儒者は「放置する」と読みましたが、荻生徂徠の批判通り、深読みのしすぎでしょう。

本章で哀公が嘆いている背景には、当時の制度と動乱があります。封建制の下では土地と民を家臣に分け与えますから、領民ではあっても、必ずしも殿様の臣下では無かったからです。加えて民政機関としても殿様の宮廷は機能しなくなってから久しく、民は従わなかったのです。

例えば飢饉の際に助けてくれない殿様より、むしろ民は家老に従いました。言い換えると周王の行政機能が諸侯に、諸侯のそれが家老に代行されるほど、知識や技術が分散したわけです。鋳鉄の出現が生産の増大を促し、上に頼らなくとも生きていける階層が出ていたのでした。

本章で「枉」(曲がった者)とあるのは、あるいは日本史の「悪党」に当たり、新興階級とも読み取れます。もしそうなら、孔子は制度の点では復古主義者でしたから、それらの階級の上に昔ながらの忠臣を置け、というのです。あるいは心中、弟子の推挙だったかも知れません。

孔子と哀公

その哀公は、孔子58歳の年に即位しました。「私はお坊ちゃん育ちで、何も知りませんから教えて下さい」と、丁寧に教えを乞いましたから、弟子の一人と言っていいでしょう。ただ残念なことにお坊ちゃんが治らなかったらしく、家老の孟氏に脅されて国外逃亡に終わりました。

確かに終わりは良くなかった哀公ですが、殿様としては結構まじめで、戦場では勇敢に戦い、孔子の教え通り人材を揃えようとし、文学青年の子夏を相談役に用いました。また斉との戦争では子貢を南方の大国・呉に派遣して、援軍を出させることに成功しました。
為政第二-19_2_032

無論、これらは孔子の差し金でしょうから、哀公は盛り立てて貰っていたわけです。時には哀公も孔子の意見を退けてはいますが、放浪の時が長く、政界に受け入れられなかった孔子にとって、亡くなるまでのこの五年は、幸せだったかも知れません。

だから哀公も孔子の死を、「父上!」と心から悔やんだのでした。

付記

伝統的解釈

哀公がたずねられた。どうしたら人民が心服するだろうか。先師がこたえられた。正しい人を挙用してまがった人の上におくと、人民は心服いたします。まがった人を挙用して正しい人の上におくと、人民は心服いたしません。

以下、訳者のメモです。
『荀子』哀公
魯哀公問於孔子曰:「寡人生於深宮之中,長於婦人之手,寡人未嘗知哀也,未嘗知憂也,未嘗知勞也,未嘗知懼也,未嘗知危也。」孔子曰:「君之所問,聖君之問也,丘、小人也,何足以知之?」曰:「非吾子無所聞之也。」孔子曰:「君入廟門而右,登自胙階,仰視榱棟,俯見几筵,其器存,其人亡,君以此思哀,則哀將焉而不至矣?君昧爽而櫛冠,平明而聽朝,一物不應,亂之端也,君以此思憂,則憂將焉而不至矣?君平明而聽朝,日昃而退,諸侯之子孫必有在君之末庭者,君以思勞,則勞將焉而不至矣?君出魯之四門,以望魯四郊,亡國之?則必有數蓋焉,君以此思懼,則懼將焉而不至矣?且丘聞之,君者,舟也;庶人者,水也。水則載舟,水則覆舟,君以此思危,則危將焉而不至矣?」
魯哀公問於孔子曰:「吾欲論吾國之士,與之治國,敢問如何取之邪?」孔子對曰:「生今之世,志古之道:居今之俗,服古之服;舍此而為非者,不亦鮮乎!」
『新序』雜事五
魯哀公問子夏曰:「必學而後可以安國保民乎?」子夏曰:「不學而能安國保民者,未嘗聞也。」哀公曰:「然則五帝有師乎?」子夏曰:「有。臣聞黃帝學乎大真,顓頊學乎綠圖,帝嚳學乎赤松子,堯學乎尹壽,舜學乎務成跗,禹學乎西王國,湯學乎威子伯,文王學乎鉸時子斯,武王學乎郭叔,周公學乎太公,仲尼學乎老聃。此十一聖人,未遭此師,則功業不著乎天下,名號不傳乎千世。」《詩》曰:「不愆不忘,率由舊章。」此之謂也。夫不學不明古道,而能安國者,未之有也。
『說苑』奉使
齊攻魯。子貢見哀公,請求救於吳。公曰:「奚先君寶之用?」子貢曰:「使吳責寶而與我師,是不可恃也。」於是以楊幹麻筋之弓六往。子貢謂吳王曰:「齊為無道,欲使周公之後不血食,且魯賦五百,邾賦三百,不識以此益齊,吳之利與?非與?」吳王懼,乃興師救魯。諸侯曰:「齊伐周公之後,而吳救之。」遂朝於吳。
(斉魯を攻む。子貢哀公に見え、呉に救いを求めんことを請う。公曰く。なんぞ先君の宝の用あらんか。子貢曰く。呉をして宝をもとめて我が師に与せしめんは、是恃むべからざるなり。是に於いて楊幹麻筋之弓六を以て往く。子貢呉王に曰く。斉無道たりて、周公の後をして血食まつりせしめざらんと欲す。かつ魯のゑじは五百、邾の賦は三百なり。識らずや、此を以て斉を益せんは、呉の利か非か。呉王懼る。乃ち師を興して魯を救く。諸侯曰く。斉周公の後を伐ち、而して呉之を救う。遂に呉に朝す。)
『禮記』檀弓上
魯哀公誄孔丘曰:「天不遺耆老,莫相予位焉,嗚呼哀哉!尼父!」

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