為政篇第二-22.人にして信なくんば…

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現代語訳と原文・読み下し

先生が言いました。「〔上辺をつくろう〕実直さのない者は、そもそも付き合っていいかすらわからない。大車や小車と役畜をつなぐくさびと同じで、それらがなければ、どうやって車を走らせる事が出来るだろう?」


子曰。人而無信、不知其可也。大車無輗、小車無軏、其何以行之哉。

子曰く。人にまこと無くんば、其のしかを知らる也。大車にゲイ無く、小車にゲツ無くんば、其れ何を以てか之をらん

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語釈

白川説によれば、「口」は祭文の容れ物で、それを枝で叩き神の許し=許可を得ること。藤堂説では曲がったカギ形+口(くち)で、のどを曲げて声をかすらせること。曲がったのどからやっと声が出ることから、曲折はありながらどうにかよろしい、差し支えはない、の意。
為政第二 22_002

輗・軏

藤堂説では兒(=児)は小さいもの、ゴツはゴツッと飛び出たもので、いずれも車から伸びたながえ=引き棒と、家畜のくびき=牽引用の首かせとをつなぐ、くさびの事。引き棒と首かせが強固に固定されていると、家畜の動きを妨げ、車を自在に操る事も出来ない。従って家畜と離れないようにしたまま、ある程度自由に動けるようにするための接続部品。
白川説は「輗」だけを取り上げ、「兒は虹の事だから、エの字形に掛け渡すもの」と説くが、それでは首かせになり、本章と合わない。

くびき

©Cgoodwin(via https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8F%E3%81%B3%E3%81%8D)

解説

伝統的解釈に、大きな異議はありません。

仮面ごしには人はわからない

本章にも、孔子が作り事を嫌ったことが現れています。想像するに、あの人に付いていって大丈夫でしょうか、と弟子に聞かれた孔子が、人は見かけによらない、だからまず正確な情報を取りなさい、と諭したのでしょう。想像で見上げも見下げもしてはいけないと。

若者はとかく、精出して下調べするよりも、直感で好き嫌いを決めてしまいがちです。根拠がないだけに、印象は大きくなりがちでもあります。それでは仁者に出会えず、また悪人を防げません。それも元は勝手な期待から、と経験豊富な孔子は気付いていたはずです。

さらに当人がうわべを取り繕っていたら、人の善さどころか、付き合うに差し支えがないか程度のことすらわからない、と孔子は言うのです。これも当時の時代背景、人の悪さの反映でしょうが、孔子の繰り言と捉えるとつまらないので、ここでは弟子への教訓と解しました。

中国人と神

さて白川説が正しいとするなら、言わば「オラオラ許せよ、神サン」と神主が強要していますが、古来中国では、人と神とは対等でした。『水滸伝』にも似たような話があり、豪傑の一人がお社に押し入って、「願いを叶えろ! でないと社殿を叩き壊すぞ!」と脅しています。

『西遊記』では、唐の太宗皇帝が、うっかり地獄に行ってしまいます。家臣が慌てて閻魔庁ほか冥界の各方面にワイロをばらまいて、なんとか執行猶予=現世帰りになりました。どちらも史実ではありませんが、中国人にとって神様は、いわば取引相手でしかありません。

一方日本では地鎮祭で、お供えをした上で、「どうか祟らないで下さい」と下手に出ます。自然災害の規模によるのでしょうか? 黄河級の川が暴れ出すと、津波のように、何ものも無くなってしまいますから、そんな記憶が中国人をそうさせた、と言われます。

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伊豆大島三原山。島の皆様と私は、「御神火様(ごじんかさま)」と申し上げる。

しかし日本にも津波はありますし、一万年に一度は、巨大噴火で広範囲が皆殺し、を繰り返しています。ですがケロリと忘れて日本人は、温泉につかって神の山を拝みます。中国ほど人が多くないから、災害も人ごととして忘れてしまうのでしょうか?

古代中国の世知辛さ

この点確かに言えるのは、日本人よりはるかに恨みっぽいのが中国人ということです。中国人はメモ魔でもありますし。ところがそのメモを、いともあっさり丸焼けにする人々でもあります。始皇帝の焚書坑儒だけでなく、有名な『史記』も中国には残りませんでした。

現在中国にある本は、かろうじて日本に残されていた本が、逆輸入されたものです。つまり中国人は記憶は大事にしますが、記録はどうでもいいというわけです。言い換えるなら客観的事実などどうでもいいし、都合次第で書き換えて結構、と思っているようです。

なるほどそんな社会では、本章のように人を選ぶ際には、慎重になる必要があるでしょう。加えて本章からわかるのは、少なくとも貴族に限れば、純朴な人は当時も少なかったことです。乱世ゆえのことではありますが、だからこそ孔子は信を説かざるを得なかったのでしょう。

付記

伝統的解釈

先師がいわれた。人間に信がなくては、どうにもならない。大車に牛をつなぐながえの横木がなく、小車に馬をつなぐながえの横木がなくては、どうして前進ができよう。人間における信もそのとおりだ。

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