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論語詳解039為政篇第二(23)十世知るべきか*

論語為政篇(23)要約:後世の創作。遠い未来が分かるか? 孔子先生はその答えを過去の歴史に求めました。同じ人間社会である以上、そんなには変わらないだろう。そして時代の要請に、沿った形に社会は変わるだろう、と。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子張問十丗可知也子曰殷因於夏禮所損益可知也周因於殷禮所損益可知也其或繼周者雖百丗可知也

※「損」字のつくりは〔厶貝〕。

校訂

諸本

  • 武内本:釋文、也一本乎に作る。其或の或は助辞、二字にてそれとよむ。(清家本により世の下亦を補う。)
  • 論語集釋:釋文:「可知也」,一本作「可知乎」,鄭本作「可知」。 皇本「雖百世」下有「亦」字。太平禦覽禮儀部述文有「亦」字。漢石經「損」字作「〔扌頁〕」。羅泌路史發揮引子曰:「商因夏禮,所損益,可知也。周因商禮,所損益,可知也。」亦以避廟諱,改殷爲商。

東洋文庫蔵清家本

子張問十丗可知也/子曰殷因於夏禮所損益可知也周因於殷禮所損益可知也/其或繼周者雖百丗亦可知

※「殷」字のつくりは〔戸十〕、「損」字のつくりは〔厶貝〕。

後漢熹平石経

…子曰殷因…也周因於殷禮所損益可知…

※『漢石經考異補正』によると漢石経は通常「曰」を「白」と記すが、本章残石の前半は『漢熹平石經殘字集録』からで、「曰」と記している。「殷」字のへんは〔一𠁣一〕。「損」字のつくりは〔厶貝〕。『論語集釋』と異なるが『漢石經考異補正』はこうなっている。

定州竹簡論語

張[問]:「十世可智與a?」子曰:「[殷]因於夏禮,[所損益],…33因於殷禮,所損益,可智也。其或繼周者,[雖百]34……[]智b。」35

  1. 十世可智與、阮本作「十世可知也」。『釋文』云「一本作”可知乎”、鄭本作”可知”」。
  2. 鄭本「知」ママ下無「也」字。

標点文

子張問、「十世可智與。」子曰、「殷因於夏禮、所損益可智也。周因於殷禮、所損益可智也。其或繼周者、雖百世亦可智也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文張 金文大篆問 金文 十 金文世 金文可 金文智 金文与 金文 子 金文曰 金文 殷 金文因 金文於 金文夏 金文礼 金文 所 金文益 金文可 金文智 金文也 金文 周 金文因 金文於 金文殷 金文礼 金文 所 金文益 金文可 金文智 金文也 金文 其 金文或 惑 金文継 金文周 金文者 金文 雖 金文百 金文世 金文亦 金文可 金文智 金文

※張→金文大篆。論語の本章は「損」が論語の時代に存在しない。「問」「與」「因」「其」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

子張しちやうふ、とをいはく、いんゐやれり、ひきたしするところかなしういんゐやれり、ひきたしするところかなあるひしうものあらば、ももいへどかな

論語:現代日本語訳

逐語訳

子張 孔子 切手
子張が問うた。「十世代のちの世を知ることが出来ますか」。先生が言った。「殷は夏の礼法制度を受け継いだが、場合によって改変した所は分かっているものだよ。周は殷の礼法制度を受け継いだが、場合によって改変した所は分かっているものだよ。だからもし周を受け継ぐ王朝が現れても、百世代のちのことまでもまた、知ることが出来るものだよ。」

意訳

論語 子張 人形 論語 孔子 人形
殷は夏の制度を受け継いだが、時代に合わせて変えた。周もまた同じ。今後百世代のちでも、大して違いは無かろうよ。

従来訳

下村湖人
子張(しちょう)がたずねた。――
「十代も後のことが果してわかるものでございましょうか。」
先師がこたえられた。――
「わかるとも。(いん)の時代は()の時代の礼制を踏襲して、いくらか改変したところもあるが、根本は変っていない。(しゅう)の時代は殷の時代の礼制を踏襲して、いくらか改変したところがあるが、やはり根本は変っていない。今後周についで新しい時代が来るかも知れないが、礼の根本は変らないだろう。真理というものは、かように過現未を通ずるものだ。従って十代はおろか百代の後も豫見出来るのだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子張問:「十代以後的社會制度和道德規範可以知道嗎?」孔子說:「商朝繼承夏朝,改動了多少,可以知道;周朝繼承商朝,改動了多少,也可以知道;以後的朝代繼承周朝,即使百代,同樣可以推測。」

中国哲学書電子化計画

子張が問うた。「十世代のちの社会制度と道徳規範を知ることが出来ますか。」孔子が言った。「殷は夏を受け継いだから、多少の変更はあったが、〔それらを〕知り得る。周は殷を受け継いだから、多少の変更はあったが、〔それらを〕知り得る。先の時代も周を受け継ぐだろうから、同じようにして百世代のちまでも推測するのは可能だ。」

論語:語釈


子張

子張

何事も「やり過ぎ」(論語先進篇15)と評された孔子の弟子。詳細は論語の人物・子張参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

十(シュウ)

十 甲骨文 十 甲骨文
(甲骨文1)/(甲骨文2)

論語の本章では”数字のじゅう”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には二種類の系統がある。横線が「1」を表すのに対して、縦線で「10」をあらわしたものと想像される。「ト」形のものは、「10」であることの区別のため一画をつけられたものか。「ジュウ」は呉音。論語語釈「十」を参照。

世(セイ)

世 金文 世 字解
(金文)

論語の本章では”世代”。初出は西周早期の金文。「セ」は呉音。字形は枝葉の先で、年輪同様、一年で伸びた部分。派生して”世代”の意となった。春秋までの金文では”一生”、”世代”、戦国時代では”人界”を意味した。戦国の竹簡では”世代”を意味した。詳細は論語語釈「世」を参照。

可(カ)

可 甲骨文 可 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(どうにかして)…出来る”。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

知(チ)→智(チ)

知 智 甲骨文 知 字解
(甲骨文)

論語の本章では”知る”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。

也(ヤ)→與(ヨ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「かな」と読んで詠嘆の意に用いている。「なり」と読んで断定の意に解しても良いが、この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋時代の金文。原義は諸説あってはっきりしない。「や」と読み主語を強調する用法は、春秋中期から例があるが、「也」を句末で断定に用いるのは、戦国時代末期以降の用法で、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

与 金文 與 字解
(金文)

定州竹簡論語の「與」は、論語の本章では”…か”という疑問辞。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。

殷(イン/アン)

BC17C-BC1046。実在が確認された中国史上最初の王朝の名。文字を持ち、鹿の骨や亀の甲羅をあぶって、そのひび割れで神意を問う、神権政治を行ったとされる。
地図 殷

殷 甲骨文 論語 殷 金文
(甲骨文)/(金文)

初出は甲骨文。字形は占いのため奴隷や捕虜の腹を割き、生き肝を取り出す姿で、殷王朝の他称。”人の生きギモを取る残忍な奴ら”の意。ただし殷自身も甲骨文でこの字を用いており、恐らく原義は”肝を取り出す”。殷の自称は商。「イン」の音は”さかん”を、「アン」の音は血の色を表す。呉音は「オン」「エン」。殷王朝はいけにえとしてむやみに人間を殺したことが、発掘調査から知られている。詳細は論語語釈「殷」を参照。

因(イン)

因 甲骨文 因 字解
(甲骨文)

論語の本章では”手本にする”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。カールグレン上古音はʔi̯ĕn(平)。

因 字形
甲骨文の字形は「囗」”寝床”+「大」”人”だが、異形字体に寝床が掻い巻きや寝袋になっているものがある。原義は”床に就く”。甲骨文では”南方”を意味し、金文では西周中期に接続詞”…だから”の用例がある。ただし”…によって”の用例は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「因」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字形は「烏」。現行字体の初出は春秋中期。その鳴き声を示し、”ああ”という感嘆詞に用いられた。”…において”の用法は、春秋時代末期から見られる。おそらく現行字形の出現と共に、その語義を獲得したとみられる。「オ」は”…において”の場合の呉音。詳細は論語語釈「於」を参照。

夏(カ)

夏 甲骨文 夏 字解
(甲骨文)

論語の本章では”夏王朝”。殷より一代前の王朝とされる。詳細は文字の無い時代であるため伝わりようが無い。BC20C-BC17Cに実在したという多分に如何わしい国家プロジェクトが、中共政府によって行われた

初出は甲骨文。甲骨文の字形は「日」”太陽”の下に目を見開いてひざまずく人「頁」で、おそらくは太陽神を祭る神殿に属する神官。甲骨文では占い師の名に用いられ、金文では人名のほか、”中華文明圏”を意味した。また戦国時代の金文では、川の名に用いた。詳細は論語語釈「夏」を参照。

禮(レイ)

礼 甲骨文 礼 字解
(甲骨文)

論語の本章では”礼儀作法”。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。

所(ソ)

所 金文 所 字解
(金文)

論語の本章では”…するところのもの”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。

損(ソン)

損 隷書 損 字解
(隷書)

論語の本章では”減らす”。初出は戦国中期の竹簡(新蔡葛陵楚簡・乙二3.4)。ただし字形は「𢿃」。現行字体の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音に「孫」とそれを部品とする漢字群。訓そこなう・へる音ソンの文字は他に無く、部品の「員」には”ふやす”訓はあっても”へらす”訓は無い。字形は「扌」”手”+音符「員」で、「損」と「孫」は同音であり、「孫」は戦国の竹簡から「遜」”譲る”を意味した。全体で手ずから減らすようなさま。原義は”減らす”。詳細は論語語釈「損」を参照。

益(エキ)

益 甲骨文 益 字解
(甲骨文)

論語の本章では”つけ加える”。初出は甲骨文。字形は「水」+「皿」で、容器に溢れるほど水を注ぎ入れるさま。原義は”増やす”。甲骨文では”利益”と解せる例がある。春秋時代までの金文では、地名人名、「諡」”おくり名を付ける”の意に用いられ、戦国の金文では「イツ」(上古音不明)”重量の単位”(春成侯壺・戦国)に用いられた。詳細は論語語釈「益」を参照。

周(シュウ)

BC1046?-BC256。論語時代の中国を代表した王朝。すでに周王の実権は失われていた。
地図 周

周 甲骨文 周 字解
(甲骨文)

初出は甲骨文。極近音に「彫」など。甲骨文の字形は彫刻のさま。原義は”彫刻”。金文の字形には下に「𠙵」”くち”があるものと、ないものが西周早期から混在している。甲骨文では”周の国”を意味し、金文では加えて原義に、人名・器名に、また”周の宗室”・”周の都”・”玉を刻む”を意味した。それ以外の語義は、出土物からは確認できない。ただし同音から、”おわる”、”掃く・ほうき”、”奴隷・人々”、”祈る(人)”、”捕らえる”の語義はありうる。詳細は論語語釈「周」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”それ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

或(コク)

或 甲骨文 或 字解
(甲骨文)

論語の本章では”あるいは”。初出は甲骨文。「ワク」は呉音。甲骨文の字形は「戈」”カマ状のほこ”+「𠙵」”くち”だが、甲骨文・金文を通じて、戈にサヤをかぶせた形の字が複数あり、恐らくはほこにサヤをかぶせたさま。原義は不明。甲骨文では地名・国名・人名・氏族名に用いられ、また”ふたたび”・”地域”の意に用いられた。金文・戦国の竹簡でも同様。詳細は論語語釈「或」を参照。

繼(ケイ)

継 甲骨文 継 字解
(甲骨文)

論語の本章では”受け継ぐ”。新字体は「継」。初出は甲骨文。但し字形はいとへんを欠く「㡭」。現行字体の初出は前漢の隷書。甲骨文の字形は繋がった「糸」二つで、原義は”続ける・続く”。金文では原義で用いられた。詳細は論語語釈「継」を参照。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では、”…をするもの”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

雖(スイ)

論語 雖 金文 雖 字解
(金文)

論語の本章では”たとえ…でも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。

百(ハク)

百 甲骨文 百 字解
(甲骨文)

論語の本章では、数字の”ひゃく”。初出は甲骨文。「ヒャク」は呉音。字形は蚕の繭を描いた象形。「白」と区別するため、「人」形を加えたと思われる。「爪である」という郭沫若(中国漢学界のボスで、中国共産党の御用学者)の説は信用できない。甲骨文には「白」と同形のもの、上に「一」を足したものが見られる。「白」単独で、”しろい”とともに数字の”ひゃく”を意味したと思われる。詳細は論語語釈「百」を参照。

雖百世可智也→雖百世亦可智也

現存最古の論語本である定州竹簡論語は「百」と「可」の間が欠損しており、論語の本章について現存最古の古注本である清家本は「雖百世亦可智也」と「亦」を記す。これに従い校訂した。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

亦 甲骨文 学而 亦 エキ
(甲骨文)

「亦」は論語の本章では”それもまた”。初出は甲骨文。原義は”人間の両脇”。春秋末期までに”…もまた”の語義を獲得した。”おおいに”の語義は、西周早期・中期の金文で「そう読み得る」だけで、確定的な論語時代の語義ではない。詳細は論語語釈「亦」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

検証

論語の本章は、後漢初期の王充が似たようなことを書くまで、誰も引用していない。

問《禮》家曰:「前孔子時,周已制禮,殷禮,夏禮,凡三王因時損益,篇有多少,文有增減。不知今《禮》周乎?殷、夏也?」

王充
『礼記』を学んでいた者が言った。「かつて孔子先生の時代、周はすでに礼法を定めていましたし、殷や夏を含め、三王朝は時に応じて礼法を増減させ、項目の多少、文字数の増減がありました。今漢帝国の世は、夏殷周、果たしてどの王朝の礼法を受け継いでいるのでしょうか?」(『論衡』謝短13)

あるいはもう少し検索の縛りをゆるめると、前漢末にまで遡れるかも知れない。

或曰:「經可損益與?」曰:「《易》始八卦,而文王六十四,其益可知也。《詩》、《書》、《禮》、《春秋》,或因或作而成於仲尼,其益可知也。故夫道非天然,應時而造者,損益可知也。」

揚雄
ある人「儒教の経典は、これまでに改訂されたんでしょうかね?」

揚雄「『易経』は八卦に始まり、文王が六十四篇に増補しましたが、どこが書き足されたかは分かります。『詩経』『書経』『礼記』『春秋』は、孔子先生がそれまでの伝承に自分の創作を足してまとめましたが、どこが書き足されたかは分かります。つまりですな、万古不易の天の道とはどうも違和感がある記述、これは時の必要で書き足されたのであって、そこを考えれば、経典のどこが改訂されたかは分かるのです。」(『楊子法言』問神6)

二人とも、この話を孔子のそれとしては記していない。本章は定州竹簡論語にあることから、前漢前半には成立していたことになるが、文字史上も、漢字の用例から見ても、戦国以降の成立と断じうる。

解説

本章には前漢の孔安国が本章に注を付けたことになってはいるが、この男は避諱すべき高祖劉邦の「邦」の字を平気で書くなど、実在が疑わしい。おそらく三国魏の何晏が古注を編むに当たり、前漢儒の総称として作りだした人物と考えるのが道理に合う。

註孔安國曰文質禮變也。

孔安国
注釈。孔安国「文字とその意味するところについて、礼法には変化があったか問うたのである。」(『論語義疏』)

なお後漢中期の馬融も注を付けている。

註馬融曰所因謂三綱五常也所損益謂文質三統也。…物類相招勢數相生其變有常故可豫知也。

馬融
注釈。馬融「人倫の基本である三綱五常は変わっていないのである。ただ小手先の掟や書き方が変わったのである。…世の似た者同士は集まってはびこったり助け合ったりしている。変化があっても必ず原則は通るのだ。だから未来を予知できると言うのだ。」(『論語義疏』)

既存の論語本では吉川本に、「文明の法則は、それが文明である限り、永遠なものを持ち不変なものを持つという確信を語ったものと見てよい。」とある。「持つ」まではその通りだが、おそらく「語った」のは孔子でなく、「周を継ぐ者」を知っていた前漢の儒者。

偽作の動機は明らかで、孔子を十世先まで見通せる超人と持ち上げ、その教説を継ぐと称する自分たちを重用しろ、と漢帝室と社会に要求するため。だから定州竹簡論語からしか無い。仮に創作が漢儒より早いとしても、戦国中期の孟子より先には作者を想定できない。

孔子はその透明な理性から、弟子の誰にも「あとを継げ」とは言わなかった。孔子塾は庶民のための貴族成り上がり塾であり、その教説は徹底的に実用的なもので、宗教のように受け継がれるべきものではなかったからだ。だから孔子没後しばらくして、儒家は一旦絶えた。

儒家と入れ替わるように、中華文明圏の学術を担ったのは墨家で、墨子は孔子一門が持ち上げた周公や周の文王・武王に先立つ聖王として、また墨家の得意である土木技術の開祖として、殷王朝より一代前の王朝「夏」の開祖・禹王の伝説を創作し、作品に箔を付けるた。

従って墨子没後20年ほどに生まれた孟子が世に出るまで、墨家はそれまでの中国史を、自派に都合のよいようにいじり回したらしく、現伝『書経』とは大きく違う本を書き広めていた。

だから太古の聖王だろうと、穀物の不作や洪水などの天災を免れることは出来なかったはずだ。それでも餓えたり凍えたりする民が出なかったのは、聖王が緊急事態に全力で当たり、自分の食い扶持を後回しにしたからに他ならない。だから『書経』にも、夏書部で「禹の時代、七年間の洪水があった」とあり、殷書部で「湯王の時、五年間の日照りがあった」とあるわけだ。だからこうした聖王の施策を、「激甚災害救済事業」と言うのである。(『墨子』七患)
そもそも食糧とは、聖人が天下に不可欠の宝として重んじるものだ。だから『書経』周書部に言う。「国に三年分穀物の蓄えが無ければ、それは国ではない。家に三年分穀物の蓄えが無ければ、貴族はその家を保てない」と。国がまず何を備えるべきか、よく分かるだろう。(『墨子』七患)

これらの記述は、現伝『書経』には見られない。それは孟子やその系統を引く儒者が、墨家の書いた部分をやはり自派に都合のよいように書き換え、削り倒したからだ。その上塗りのためだろうか、孟子は「そもそも『書経』は怪しい」と疑問を呈している。

孟子が申しました。「書経を全て鵜呑みにするなら、全部でっち上げだと断じた方がましだ。たとえば武成篇で言えば、私は二三行を史実だと思うに過ぎない。仁の情けに溢れた人は、天下に無敵だという。それが本当なら、仁者が不仁な者を討伐したあと、血に濡れた大盾を洗ったとあるのは変ではないか。(仁者がなぜそんなむごいことをしたのだろう。)」(『孟子』尽心下篇)

従って論語の本章を読んで、孔子と子張の有り難い対話だと思って読むのは無理というものだ。

余話

シュクショウ(夏王朝の創造)

通説では、中国最古の王朝は夏王朝と言われる。現中国政府もそれを「実証」する国家プロジェクトを行った。しかし2022年1月現在、最古の漢字は殷中期にならないと現れず、殷より古い王朝があったとして、それが「夏」王朝であるといえる証拠は有りそうにない。

落合淳思『甲骨文字の読み方』は、甲骨文ではすでに複数の漢字を合成した会意文字や形声文字があることから、漢字の起源は現在見つかっている甲骨文より古いだろうという。訳者も拙いながら甲骨文を読んでそれを実感するが、それでも「夏」王朝の実在は支持できない。

現在発掘されている中国の遺跡には、殷に先行する大規模な建築跡もあるし、文章を構成しないので「文字」とは言えないが、一文字だけの「記号」は発掘されており、甲骨文との関連を調べる研究もあるらしい。だが今のところ「夏」の物証は、春秋後期にならないと現れない。

「叔尸鐘」(殷周金文集成285)・斉霊公時代(BC582-BC554)

「公曰…及其高且。虩虩成唐有嚴。才帝所。㙛受天命。󰙼(翦)伐󰙼(足+)后。𢿒厥𪛈師。伊少臣隹㭪。咸有九州。」

公曰く…その高祖に及び、ケキ虩たるまことありし唐厳しきあり。帝の所に在りて、あまねく天命を受け、きみほろぼし伐ち、𢿒ことご𪛈くわしいくさくす。伊少臣しもべたりて隹だたすけ、ことごく九州をたもてり。

叔尸鐘
霊公が言った。…殷の高祖の時代に至って、慎み深い誠実がある湯王には自制心があった。天帝から大きな命令を受け、王を伐って滅ぼし、その精鋭軍をすべて撃破した。その時伊尹イインが家来となって一心に湯王を補佐し、その結果中国全土を領有することが出来た。

※「唐」dʰɑŋ(平):「湯」ɕi̯aŋ(平)/tʰɑŋ(平)

斉の霊公とは孔子が生まれた頃に没した君主で、魯の季孫家から妾を迎え、その子が孔子との縁が深い景公である。ともあれ殷の前の「夏」王朝伝説、殷の開祖「湯」王ではなく「唐」王の名と、軍師だった伊尹の名は孔子の生まれるごろになって言われ始めたと見える。

そもそも、「天命」というでっち上げが殷王朝にない。殷は北センチネル島の原住民同様、人を血祭りにして嬉しがる蛮族だったが、居もしない「天帝」を拝み、ありもしない「天命」を言うほどメルヘンが許される余裕が無かった。論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」参照。

夏殷革命伝説は殷周革命から約500年のちの創作で、やはり「夏」王朝の実在は疑わしい。

参考記事

『論語』為政篇:現代語訳・書き下し・原文
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