里仁篇第四-2.仁ならざる者は…

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現代語訳と原文・読み下し

先生が言いました。「情けのない者は、長いこと貧乏に耐えられないし、楽しみも長続きしない。情けのある者は、情けそのものに安心する。本質を真っ直ぐ見抜く者は、情けに利益があると悟る。」


子曰。不仁者、不可以久處約、不可以長處樂。仁者安仁。知者利仁。
子曰く。ジンならる者は、久しくつましきに可不えず、長く樂しみに處る以可不。仁なる者は仁にのどまる。知なる者は仁にまうく。

解説

伝統的解釈に異議はありません。ただつまらなさを本章に感じるのみです。

思いやりが利益になるわけ

不仁な者が窮乏に耐えられないのは、文字通り思いやりの心がないからです。思いやりの根本は、自分を生かすにあたって犠牲となった食物以下自然の万物への感謝ですが、不仁者はそれへの思いをやりもしませんから、少なければ不平を言い、多くても不満を言うのです。

だから楽しむことが出来ません。また中国では伝統的にむごいことをすると寿命が縮むとされています。しかし仁者は万物への思いやりがあるので、「仁者は寿命が長い」(雍也23)と孔子は言ったのです。「神いますが如く」(八佾12)感謝すると長生きするわけです。

一方不仁者はむごいことでも平気でやるので、自然にも人にもうらまれて、楽しみも長続きしないでしょう。従来の解釈では「さらなる分不相応をしでかすから、楽しみが長続きしない」と言いますが、しでかす前にそもそも、楽を楽しむことすら困難でしょう。

貰って当然、と考えているからです。つまり自分になぜ望ましきものが与えられたのか考えません。対して仁者は感謝と共にそれを受け取ります。知者はなぜ貰えるのかを思い、そのように思いをやる仁が、結局はよきもの、よき喜びの利益を自分にもたらすと知っているのです。

農学が進めば収穫が増え、文学が進めば安上がりの暇つぶしが出来るようにです。この点で孔子は主知主義で、おそらく生涯、生まれついての仁者に会ったことがない以上、学びと稽古を通じて弟子の脳を鍛え、知力で仁者に利があるとわからせ、それを目指すよう教えました。

その影響で儒教では哲人にもランクがあり、仁者は知者より上とされました。利益が無くとも仁に親しむ方が、利益ゆえに親しむより望ましいと考えるのは当然です。しかしそのような人がこの世にいるのでしょうか? 本章がつまらないのは、そのあたりに理由がありそうです。

悪党の注意書き

それを面白く読んだのは加地伸行先生です。不仁な者の取り扱い注意書きだと言うのです。

心なき者には貧しい生活を長くさせてはならない。〔きっと悪いことをするからである。〕心ある者(仁者)は自分の境地(仁)のままに満足して生き、知ある者(知者)は己の境地の価値を社会に活かす。

「不可以久處約」の「處」を使役に読めばこうなります。しかし使役に読まなければならない理由はありません。加えて人でなしは危険だから贅沢させておけ、と言えば世の人はこぞって人でなしになりかねないので、面白い解釈の一つとして受け取るべきでしょう。

あるいは宰相格経験者として、世の中には人でなしもいるのだから、そういう者こそ社会保障を与えてやった方がいい、という現実論かもしれません。知者は自分で何とかするだろうし、仁者はニコニコとどんな境遇でも喜んで、デモだの暴動だの起こさないから、と。

そう解すると加地先生の訳が一層面白くなるのですが、その分孔子の人の悪さが前に出てしまいます。儒者が言うほど孔子は聖人君子ではありませんが、むごいことを嫌う優しい人でもありましたので、訳者としては露悪的に本章を考えるのもいかがなものかと思います。

付記

伝統的解釈

先師がいわれた。不仁な人間は、長く逆境に身を処することもできないし、また長く順境に身を処することもできない。それができるのは仁者と知者であるが、仁者はどんな境遇にあっても、仁そのものに安んずるがゆえにみだれないし、知者は仁の価値を知って努力するがゆえにみだれない

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