里仁篇第四-4.いやしくも仁に志し…

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現代語訳と原文・読み下し

先生が言いました。「もし哀れみの心を持てるよう心がけているなら、きっと悪いことは起こらないものだよ。」


子曰。苟志於仁矣、無惡也。
子曰く。いやしくも仁志してんか、惡しきこと無き也。

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語釈

コウ

白川説では、祈祷中のキョウ人を殴り、戒めるさま。
藤堂説では、何かを包んで草紐で小さく縛ってまとめた姿の象形。「一区切りずつ・とりあえずする・してみる・いい加減にやる」。「まことに」と読み始めたのは朱子。

惡(悪)

白川説では、墓穴。
藤堂説では、亜の字形に掘り下げた、家屋の基礎。そんなところに押し込まれたような心持ち。共に「悪い・憎む・疑問詞一般」。
里仁第四-4_1_002

解説

伝統的解釈に異議はありません。

大したことは言っていない

しかし漢字の多義性に、収拾のつかない混乱をつけ加えた朱子の読みは今回採用しません。吉川幸次郎先生によると、「惡」を伊藤仁斎は「憎まれる」と解し、世論は公平だから、人に憎まれるような者は欠点がある、と唱えたようです。しかしそうなると前章と矛盾します。

世論を作る者の多くは仁者でなく、公平ではありえないからです。また「苟志於仁矣」をsubjunctive clause(仮定法節)とする吉川先生の説明はその通りですが、朱子はそれを義務的に「確実に仁に志す」とし、それ以外はゆるく「もし少しでも志すなら」としたわけです。

軍国主義時代の御用学者=朱子が唱えた説を、真に受けると頭がおかしくなります。いずれにせよ微言大義しないとご飯が食べられなかった儒者と違い、現代人はご大層な説明にこだわることなく、孔子はありふれた説教をしただけ、としておくのがよさそうです。

付記

伝統的解釈

先師がいわれた。志がたえず仁に向ってさえおれば、過失はあっても悪を行なうことはない。

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