里仁篇第四-8.あしたに道を聞かば…

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現代語訳と原文・読み下し

先生が言いました。「ある朝、正しい方法を聞き知ったなら、その日の夕方に死んでしまってもいいね。」


子曰。朝聞道。夕死可矣。
子曰く。あしたに道を聞かば、夕べに死すとも

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語釈

悪くはない、してもいい、する能力はある。

解説

伝統的解釈は、やや力が入りすぎているように感じます。

「道」とは何か

正しい方法が分かればその日に死ぬかも、というわけですから、「夕方になったら死のう」でも「すぐ死んでもいい」でもありません。対してブッダは悟った時、真理をなめ尽くすように楽しんだといいます。訳者の如き凡俗には、とても理解しがたい快楽なのでしょう。
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ここで「道」を正しい方法と解釈しましたが、「礼」と同様、その定義は曖昧です。語義からいえば道路であり、やり方のことです。論語では、「正しい人の道・やり方」程度を意味し、あまり厳しくその意義を追求しても徒労に終わるでしょう。

従って論語を読む場合、「道」を何か深遠な哲理を含んだ固有名詞と見なすべきではなく、車が道路を外れて草むらに踏み込まないようにするのと同様、不断の学習によって外れないよう気を止めるべき、一般名詞としての筋道と捉えるのが適切です。

この点、「道」に哲理を見いだそうとする、神秘主義の道教と、単なる筋道と見なす合理主義の孔子の教えとは異なります。論語の「道」に哲理を含めて解釈するようになったのは、主に儒教が道教に影響されて変質し、神秘主義を取り入れた、朱子が代表する宋学からでした。

道教の開祖は老子とされますが、その同一人物が孔子に礼を教えたかは不明です。現代歴史学の主流では、老子は実在しないと言いますが、孔子を教えた人物と、無為自然=何もしないことを説いた『道徳経』の原本を書いた人物は、それぞれ実在したはずです。

しかし老子もまた、まるまるの無学では君子に向かないと言っています。学んだ上で、余計な世間いじりをしない方が、自分と民のためになると知るのが、老子流の「知」であり、そうした生き方が「道」であると説きました。革命家の孔子とは、そもそも定義が違うのです。

道家にとっては「道」は目指すべき目的であり、孔子にとっては理想実現のための手段ということです。従って死んでしまっては意味が無く、むしろ生きてそれを求めなさい、死んでもいいほどに努力しなさい、それが本章で孔子が説いたところでしょう。

儒家と道家の空しいケンカ

しかし老子と孔子の後継者は、定義が違うのにそれをひとまとめにしようとし、あまり意味のない争いを繰り返しました。自分以外の正義を一切認めない、朱子の悪いところが影響したと思われますが、それは受けて立つ道家側もあまり違いませんでした。


…ある家では、孔子・釈迦・老子の像を祭り、その順にお供えしていた。道士がやってきて、老子を真ん中に移して本尊にした。別の日に坊主がやってきて、釈迦を真ん中に置いた。さらに別の日に儒者がやってきて、孔子を真ん中に置いた。
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三聖が嘆く。「やれやれ、ワシらは仲良うやっておると言うに、弟子どもが仲を裂いてしまいよる」。(『笑府』)


確かに『老子』を読むと、論語を読んだ上で批判していると思われる記述があります。加えて史料通りなら、老子は300歳を超えて生きたことになります。だからこそ超人で、その教説を学べば不老長寿を手に出来る、と道家は主張したのですが、荒唐無稽と言うべきでしょう。

しかし孔子を教えた老子などいなかった、とするのもまた無茶で、歌舞伎役者のように、初代二代目…と、のちに老子と呼ばれた賢者が何人もいたと考えればいいでしょう。その何代目かが周の都で宮廷図書館の司書を務め、そこへ孔子が上京して、教わったと訳者は考えます。

その孔子が帰国の際、老子は呼び止めて言いました。「生きてこそ花実が咲く。殺される知者が出るのは、他人の悪をあばくからじゃ。目立たぬよう、おとなしくしておりなされ。」それが老子の「道」ですが、孔子は手段と思っていますから、激しく他人の悪を批判しました。
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例えばそれで宋国の将軍を怒らせて、弟子もろとも殺されかけたほどです。社会改革のためには、悪の権力者を滅ぼさねばならない、それが天に与えられた使命だと、確信していたからです。はなむけの教えは、無駄だったのでしょうか? そうでもありません。

子張の就職活動に際し、クドクド話したお説教が、老子そっくりだからです。学者に向いた子張には、政治家や処世術としての「道」ではなく、究極の真理である老子的「道」を目指して貰いたかったのでしょう。その意味では確かに、孔子は老子の弟子と言えるのです。

付記

伝統的解釈

先師がいわれた。朝に真実の道をきき得たら、夕には死んでも思い残すことはない。

以下、訳者のメモです。
『笑府』卷八·搬是非
一家尊奉三教。塑像供養先儒。次釋。次道。々士*見之。即移老君子中。僧見又移釋迦于中。士見仍移孔子于中。三聖自相謂曰。我們自好々的。却被人搬來搬去搬壞了。
*踊り字「々」は殷代の繰り返し記号「=」が変化した記号とも言われ、通常、固有の音や意味ははないとされる。しかしこの箇所では「道士」と読むしかない。あるいは同じ機能を持つ「ドウ」の転用と思われる。ただし「道」の現代音はdào、呉音ダウ、漢音タウ。対して「仝」は同じくtóng・ズウ・トウなので音が合わない。『学研漢和』には「仝」が載っていないので、古代音・中古音も今は追いようがない。ただし『大漢和』に引く『廣韻』『正字通』には、「出道書」「道書同作仝」とあるから、道家自身がそう自称していたと思われる。

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