里仁篇第四-10.君子の天下に於けるや…

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現代語訳と原文・読み下し

先生が言いました。「弟子の諸君、そもそも君子というものは、世間に大歓迎されることも、けんもほろろに閉め出しを食うこともないものだ。それでも自分には常に正義が寄り添っていることを、忘れないで欲しい。」


子曰。君子之於天下也、無適也、無莫也、義之與比。
子曰く。君子之天下に於けるかなふ無きなりはるる無きなるも、ただしき之ともふあり。

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語釈

「適切」の適。まともに当たっていること。

草むらに日が隠れることの象形。なし、なかれと否定することば。よくない。ここでは受け付けないこと。

解説

伝統的解釈は、ややうがち過ぎと感じます。
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本章の解釈

「君子之於天下也」とは、文字通り「天下における君子」と取ればよく、「政治に当たって…」と読むのは、政治家としての「君子」に引きずられているように感じます。ここは逆境にもくじけず順境にも驕らず、正義を貫いて欲しいと言う励ましと解するべきでしょう。

本章は、君子が「無適無莫」の主体なのか客体なのかで解釈が分かれます。上の訳は客体ですが、主体ならば「世間に迎合して好き嫌いせず、常に筋を通して欲しい」というお説教になります。あるいは「極端な好き嫌いはいけない」と中庸を説く教えだと読むのもいいでしょう。

でもそれではぬるま湯で、革命家の言葉らしくないですし、弟子がわざわざメモして、後世に残したとも思えません。孔子一門の彷徨ホウコウ(さまよい)は、何度も死に直面する旅だったからです。実際には閉め出しどころか、「みなごろしだ!」と追われまでしたのですから。

そんな折、「諸君、これは何かの間違いだ。受け入れてくれる殿様はきっといる」と、励ましたのでしょう。

孔子一行の放浪

その苦難は、さまざま記録されています。

孔子鄭に弟子與適きて相失へり。孔子獨り郭東の門に立つるに、鄭人の或、子貢に謂ひて曰く、「東門に人有りて其の顙は堯に似、其の項は皋陶に類し、其の肩は子產に類せり。然るに要自り以下は禹に三寸及ば不、纍纍たること喪家之狗の若し」と。子貢實を以て孔子に告ぐるに、孔子欣然と笑ひて曰く、「形狀末し也。而し喪家之狗を似て謂へるは然哉、然哉」と。(『史記』孔子世家)

(孔子が鄭国へ弟子と共に行き、互いにはぐれた。孔子は独りで城壁の東門に立っていた。鄭人のある者が子貢に言った。「東門に人がいて、そのひたいは聖天子の堯に、うなじは名奉行の皋陶に、その肩は名家老の子産に似ている。しかし腰より下のたけは聖天子の禹に三寸足りなく、しょげているさまは飼い主を失った犬のようだ」。孔子に追いついた子貢は聞いたままを言った。孔子がニコニコと笑って言った。「そこまで立派ななりはしていないが、飼い主を無くした犬というのはその通りだな、その通りだな」。)

いつまでたっても就職できない自分と、飼い主を亡くした犬が同じように思えたのでしょう。
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鄭は春秋時代初頭には大いに勢力のある国でしたが、しょせん中原の小国とあってその後振るわず、名家老の子産もすでに世を去っていました。子産はかつて、おそらく洛陽留学の途中で鄭を訪れた青年時代の孔子を弟のように可愛がり、その死を孔子は泣いて嘆きました。

なお原文「喪家之狗ソウカのいぬ」を「飼い主を失った犬」と解釈していますが、従来は「葬礼中の家の犬」と解釈する場合もあります。自家の不幸に犬までが感じ入るのは、時に気の毒なほど忠実な、人類最古の友にはありうることですが、すこし妖怪話じみているでしょう。

さてこの時はしょぼくれるだけで済みましたが、命の危険もありました。その一つ。

孔子曹を去り宋に適けり。弟子與禮を大樹の下に習ふ。宋の司馬桓魋孔子を殺さむと欲し其樹を拔く。孔子去るも弟子曰く。以て速ぐ可かり矣。孔子曰く。天德を予於生ましむ。桓魋其れ予を何の如くせん。(同上)

(孔子は曹を去って宋に行った。弟子と礼を大樹の下で実習した。宋の司馬=大将軍・桓魋カンタイは孔子を殺そうとし、その樹を抜いた。孔子はその場を動いたが、弟子は「急いで下さい!」と言った。孔子が言った。「天は私に徳を与えた。桓魋ごときが私に何が出来ようぞ。」)

桓魋が孔子を襲ったのは、作らせた棺桶に文句をつけられたから、とされますが怪しいものです。『左伝』を通読すると、桓魋は相当にものの分かった人物だからです。それよりも桓魋の弟・司馬牛が、孔子門下でありながら、一門とは別行動し、不審死したのが気になります。

いずれにせよ子路たち弟子が斬り防ぐ中、孔子は担がれて逃げたはずです。まさに「ひとえに貫いた」のであって、命の危険があろうと自分の信念は曲げなかったのです。

孔子とウォロシーロフ

歴史にはたまにこういう人が出ます。恐怖政治の最中に、スターリンにソーセージを投げつけた、ウォロシーロフ将軍もそうだったようです。連戦連敗のソ連軍。怒ったウォロシーロフ、党幹部一同の会食中に、「こうなったのも同志スターリン、あんたのせいだ!」

むっとするスターリンに「優秀な軍人をみな粛正してしまった!」…ただしそう言う当人は、戦えば必ず負ける元帥でした。勇気はありました。でもそれは敵の大軍に向かって一人で拳銃一丁突進するような勇気で、部下に引きずられるように、引き戻されたことでしょう。

フルシチョフには「赤軍の肥溜」、トロツキーには「漫画のような奴」と言われ、ブハーリンには実際漫画に描かれました。あるいはスターリンの飼い犬とまで言われましたが、粛正の犠牲となった党幹部の子を引き取り育てたりと、それなりに自分の正義を通す人でした。
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頑として自分の正義を貫いた孔子は、それゆえに諸国を放浪するはめになり、息子には先立たれ、愛弟子の子路・顔回にも先立たれました。その時はさすがに、「天は私を殺す気か!」と呪っています。ひたすら天に代わって正義を通してきたというのに、ということでしょう。

確かに孔子は、中庸の徳=片寄らないことを教えました。ですがそれを言える人なら、まちの床屋の客にもいるでしょう。歴史に名を残すからには、それなりの激しさがあったはずで、「桓魋如きに殺されるか!」と本気で思ったことでしょう。

付記

伝統的解釈

先師がいわれた。君子が政治の局にあたる場合には、自分の考えを固執し、無理じいに事を行なったり禁止したりすることは決してない。虚心に道理のあるところに従うだけである。

以下、訳者のメモです。
『史記』鄭世家
聲公五年,鄭相子產卒,鄭人皆哭泣,悲之如亡親戚。子產者,鄭成公少子也。為人仁愛人,事君忠厚。孔子嘗過鄭,與子產如兄弟云。及聞子產死,孔子為泣曰:「古之遺愛也!」
『七十二弟子解』曲禮子貢問
孔子在宋,見桓魋自為石槨,三年而不成,工匠皆病。夫子愀然曰:「若是其靡也,死不如速杇之愈。」冉子僕,曰:「禮,凶事不豫。此何謂也乎?」夫子曰:「既死而議謚,謚定而卜葬,既葬而立廟,皆臣子之事,非所豫屬也。況自為之哉?」南宮敬叔以富得罪於定公,犇衛。衛侯請復之,載其寶以朝。夫子聞之,曰:「若是其貨也,喪不若速貧之愈。」子游侍,曰:「敢問何謂如此?」孔子曰:「富而不好禮,殃也。敬叔以富喪矣,而又弗改。吾懼其將有後患也。」敬叔聞之,驟如孔氏,而後循禮施散焉。

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